恋だけじゃない。仕事だけじゃない。

現代にはもっと“不便”が必要?恋も仕事もあなたに足りないのは“不便さ”

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私はいま、ひとり“ラブリンピック”を開催している。現在の参加国は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、フランス、韓国、スウェーデン!何度も述べているほど、私は「tinder」という出会いのアプリにはまっている。
 
首都圏に住んでて初めて良かったと思った。だって東京に居て、世界中の人とデートできるんだもん!

私は日本語と英語と関西弁が話せるのだが、英語のレベルは、ペラペラではないが日常会話は困らないほど。だから日本語が分からない人とは会っていなくて、日本語が分かる外国人を選んで会っている。やっぱり母国語で話せない人と、ボケとツッコミとかどうやってやるの?って思うし。

だから彼らとは、日本語でメールして、英語で返ってくる、というメールをしている。そして会話は、基本的に日本語で会話して、通じないときは英語でくらいで、70%日本語、30%英語くらいで話している。

よく六本木あたりで見かける光景なのだが、どー見ても全員日本人なのに英語で会話している光景。そこで英語ペラペラでない私が萎縮する・・・って絶対おかしい。日本で日本語話せない人が萎縮するのは分かるけど、なんで英語話せない私が萎縮しないといけないの?!だから私はみんなが英語で話してても、絶対に日本語で話してやる。しかも誇りを持って関西弁で。

私の日本語も関西弁訛りなので、相手も聞き取りが必死だし、相手も日本語がペラペラでないから、こっちもしっかり聞かないと分からない。

お互い理解し合おうと歩み寄る。
そうしたら、あれ?日本人同士なら生まれなかった何かが生まれるのだ。それはまさにこれではないだろうか。

『不便さの快適』

日本には“あうんの呼吸”というものがあって、言わなくても通じることが美しいとされている。お能には“秘すれば花”という言葉もあるし、日本の文化とは主張ではなく感受の文化だ。

言葉の次元を超えて通じ合うことができる、というのは美しいと思う。だけど常々思うのは、言わない中には“言わない”だけでなく、“あきらめ”があると思う時があるのだ。「どうせ言っても分からないから言わない」「どうせ言っても変わらないから言わない」というのは、長年連れ添った夫婦にはよくあることだろう。

でも言葉や文化が違うとそもそも論がないので、聞かないと分からない。しかも語学力がないため、「ちょっと気になる」とかの曖昧な言葉が分からないので、「I like you」みたいにハッキリ言ってしまう。だから駆け引きをするモテテクなんてものも、ぜんぜん使えない。

そうやって最初から真っ直ぐに向き合う関係性は、心がとても快適だ。

それに文化が違うというのは、新しい発見がたくさんある。
「I want to come」とベットの上で言われて、「来たい?」と思ったけど、それは日本の「イク(go)」なんですよね。
ピクニックをしよう!と言われて、おにぎり作っていこうとしたら、「ブリトーとブラウニーがいいね!」と言われたり。
「ぼくはスーパーロマンチストなんだ」って自己PRされて、ポエムを言い始められたり。(でも何いってるか分からない)
私たちが学校で習うのはアメリカ英語だから、イギリス英語が聞き取りにくくてハリーポッターみたいで面白かったり。

些細な日常に不便さが出ると、いちいち面白い。日常を非日常にするのには、サプライズ的なビックイベントが必要と思ってたけど、自分との違いによる不便さや障害が非日常を作るんですね。

仕事でも同じだと思う。設備や人環境の快適さは絶対必要だと思う。だけど仕事内容が快適過ぎて障害がないと、ルーティンワークのようになり、そのルーティンワークに慣れてしまい、昔思ってた不平不満だけでなく、野望や志まで失ってしまう。満足度100%には絶対にならない。だけど50%以下にも絶対にならない。

『面白くないけど平穏』
『障害があってエキサイティング』

恋も仕事もどちらを選ぶか?だと思う。ここに正解はない。

だけども現代はあまりにも便利過ぎて、みんなそれに慣れちゃって、ちっちゃな面倒を避けて、結局は便利になる以前よりも人との距離が近づかなかったり、本来の自分を失ったりしていることは、みんな薄々感じていることではないだろうか。そして大多数の人が、『面白くないけど平穏』を選択しているのが事実。

恋でも仕事でも、あなたがあえて不便さを選択するとき、そこには逆説的な快適さと面白さがあるはずなのだ。