「お前がモテないのはこうだから」2010年代の恋愛を振り返る/小野ほりでい

小野ほりでいイラスト

縁がないのは「自分のせい」とされた2010年代

2010年代の恋愛事情をひと言で括るなら、「実力社会」の四文字が相応しいのではないでしょうか。「婚活」「恋活」「女子力」といったマッチョ思考な言葉で表現されるように、結婚までを視野に入れた「恋愛」はいつの間にか「努力」を要求するものになったのでした。

かつて、「縁があった」とか「縁がなかった」というように「転がり込んでくる」ものだった恋愛は、己の努力によって獲得する「競争」的な性質のものに変わりました。恋愛は欲望の開放ではなく糖質制限、筋トレ、自分磨きといった禁欲的な努力のイメージと繋がり、婚活ビジネスでは「費やした努力(金額)が実を結ぶ」というソーシャルゲーム的な図式が強調され、マッチングサービスの広告には「エンジニア年収700万」とか「人事年収800万」といった射幸心を煽る表現が躍ります。

恋愛には「努力」と「結果」が対応しているという理屈によって「縁がない」は「努力が足りない」ということになり、したがって努力を怠ることが許されない事態が起こります。「結婚しなかった」も「縁がなかった」も、この実力社会的な構図で「努力が足りなかった」ことにされるので、「婚活」「恋活」は最後まで強迫的な努力を要求するのです。

「色気づくな」と「結婚はまだか」の矛盾した抑圧

女性目線での「恋愛」のハードさは、学生の時分には「色気づくな、恋愛も化粧もまだ早い、学生のうちは勉強が本分」という強い抑圧を受けるものの、社会に出れば今度は「結婚はまだか、子どもはまだか」と急かされる立場になるという図式に見ることができます。
子どもに対する「まだまだ自分の支配下にいてほしい」「知らない世界に行ってしまうのが怖い」という感情を親は普通に持っているのですが、そうは言ってもいつまでも家に縛り付けるわけにはいきません。この矛盾は、特に学生のような若い時分には「若者どうしの恋愛は将来性が不透明で不安定なのだから」という理屈で(特に今の時代はそうですね)正当化できるため、親や社会はこの理屈になぞらえて、いかに性がおぞましく恐ろしいものであるかの教育を施し、恋愛のスタートを遅らせようと試みる傾向にあるようです。

もっと早い段階では、子どもの性のめざめは親にとって恐ろしいものであり、なんとかそれを妨害しようと試みる親もいます。これによって子どもは「恋愛とか性は恐ろしいものだ」という罪悪感を植え込まれて暮らすわけですが、この観念は無意識下に自分の考えとして溶け込んでいるため自覚することができません。自分が誰かに恋愛感情を抱くことも、誰かが自分に恋愛感情を抱くことも後ろめたい思いを抱かせることになり、消極的な態度を強いられるのです。
さらに、いざ社会に出てみれば出逢いなどそうそうないことに気付かされます。大人同士の関係性は一種の打算に基づいたものであり、条件面で「選択」することはできるものの、そこに「出逢った」という必然性はないのです。

この「自立してほしい」「自立してほしくない」という矛盾した抑圧に応えるべく、我々はアイドルやキャラクターといった「推し」を応援して現実の恋愛を回避する術を学びます。親はいつまでもグッズを集めたりしている子どもを表向きは呆れたりたしなめつつ、内心そうしてくれていることに安心するわけです。
総括すると、恋愛は「禁止されているもの」としての側面と「ハードな競争を要求するもの」の側面に分裂しており、この過度のプレッシャーから多くの脱落者を生んでいるのではないかと思います。