パリはファッションの街というイメージがあるが、実は一般の女性は日本ほどおしゃれではない。おしゃれではない、というか頑張っていない。
でも着るものに無頓着というわけではなく、見て違和感を感じない、つまりナチュラルな形で着こなすことが多い。
それはなぜか?
着ることは、生活すること。
毎日を生活するのに、“頑張って”しまったら続かないから。
日本人は何かと追及したり、頑張ったりすることが評価される。
フランスでは頑張らなければ続けられないような、自分のキャパシティを超えることは非合理的と判断する人が多い。
自分を「量増し」しないで「頑張る」
教育システムからして、頑張らないことは大事。
基本的にすべての教育が無料で、誰がどこの高校に行くのも基本的に自由。
いわゆる高校別の受験勉強はありません。
ではすべての高校の学力が同じかというと、日本と同じように学力の高低差は存在します。
誰でもどこでも行けるのなら、日本人だったら絶対学力の高い進学校に行きたいと思うもの。
「あらあ、●●高校なのぉ。アタマいいのねぇ~」と評価されますし。
でも、フランスでは生徒自ら自分の学力を鑑みて「自分のレベルではここの高校が妥当かな」と高校を選びます。
頑張って自分の学力より上の高校に
進んだとしても、勉強について行けなくては何の意味もないから。 見栄より実を取るのです。
服装でも同じこと。
頑張って「おしゃれ」にしても意味がない。
自分にできる範囲内、それはお金もそうですが、時間やライフスタイルなどを犠牲にしない範囲でできるものでなければ意味がないと判断するようです。
日本人は今ある自分の状態を頑張って“量増し”できるようにする傾向があります。
高校はできるだけ高いところに受かるように頑張る。
大学もできるだけ“いい”大学に受かるように、塾へ行き、追い込みをかける。
就活の時は、見た目を就活仕様にするためにお金をかけてスーツを買い、髪を染める。
普段のデート服も頑張ってモテ服にする。
東京の女性はおしゃれです。
世界でも稀にみるおしゃれレベル。
それは、みんなが頑張っている結果。
素晴らしいのです。
では、なぜ頑張らなくてもフランス人はおしゃれに「見える」のか。
不思議です。
おしゃれの本場だという先入観もあるでしょうが、自分は理由のひとつが、あの「理屈っぽさ」にあると思っています。
フランス人は感覚でものごとを片づけることが嫌い。
「かわいい」「美しい」は感覚です。
その感覚を理屈付けすることが、クセになっていると言ってもいい。
理屈好きな性格がセンスを育てる?
あるフランスの高校の授業に出席したことがあるのですが、美術の授業はまるで数学の微分積分と叙事詩の文献学を足して2で割った(表現がいい加減で、すいません)ような内容。
「この絵はなぜ美しいのか。こことここが黄金律で、こことここがヘキサゴンと二等辺三角形を生み出し、どーのこーの(ここらへんうろ覚え)。
歴史的背景を考えると、この画家は自然派の詩の影響を受けているはずだから、どーのこーの(ここらへん集中力途切れ気味)。云々」
そんなことどーでもいいじゃん! かわいいでいいじゃん! 「美しい」でいいじゃん! とブチきれそうになりましたが、美しさを分析するトレーニングができている分、 「これとこれの組み合わせはないな」「この色とこの色はマッチする」などの選択が自然とできるのではないか、と。
日仏それぞれのファッションにそれぞれの美しさがあると思います。
違いは頑張るか、頑張らないか。
頑張るファッションって素晴らしいと、個人的には思っていますが、ノンシャラン(肩の力が抜けた)なファッションも素敵。
どちらを選んだとしても、美しければそれでいい。 ジャンヌ・モローも言っていました。
「男は美しければそれでいい」。
美しさは国それぞれで、人それぞれ。
願わくば、就職活動中の“美しさ”も人それぞれ、もう少しバリエーションがあってもいいんじゃないかと思います。
Text/Keiichi Koyama