「サセ子」のイメージは変わっていないのに
ちなみに、「『ヤリマン』『サセ子』についてどう思いますか? それぞれの特徴についても教えてください」という質問項目に関しては、
「ヤリマンは自分から誘う。サセ子は誘い受け(誘われ待ち)ってニュアンスでした」
「自分から選ぶ(やりまん)か、選ばれる(させ子)か。相手にしろセックスの内容にしろ」
「ヤリマン→セックスが好きでしてる。積極的。させ子→頼めばセックスさせてくれる。消極的。承認欲求など」
「ヤリマン=自分から発散、させ子=男からの誘いを断れない人」
「ヤリマン⇒セックスというかチンポ・男性器が好きで自発的に男を喰いに行く女。ハツラツとしていてカラッとした女が多い気がします。させ子⇒相手のことが可哀想で…等、その場や相手の雰囲気に絆されてマンコ広げちゃう〜(でも良くないことという自覚はある)感じの、思慮深いというか思いやりのある女が多い気がします」
といった具合に、ヤリマン/サセ子観自体は、十数年前と変わっていないのですが、なぜにサセ子と名乗る女性が増えたのかだろうか。
わたしとしては「ヤリマンだったよねー!」とはいえるけど「サセ子だった」というのは、恥ずかくていえない。だって主体性がないみたいじゃないですか……とここまで考えて気が付いたのは、「わたし、主体性があるって思われたいんだ」ということで、それはイコール、「自らの弱さやダメさ、だらしのなさみたいなネガティブ要素を大っぴらにしたくない、隠しておきたい」ということでもある……わわわわ! なんてしょっぱい!!! そもそも主体性のない人ほど「主体性がある」とかいいたがるわけで、それよりも「主体性、ないんです~」といえる人のほうがずっと主体性があるようにも思える。「サセ子だった」と堂々言える強さを! わたしも! 身に着けたい!
Text/大泉りか
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