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 特に僕の場合、“髭男爵”というコンビ名の三分の一を占める“髭”のお手入れは、疎かに出来ない。
 野球選手のバットやグローブ同様、僕にとって“髭”は商売道具。
 プロとして当然の心掛けである。
 “輪郭”はT字剃刀、“長さ”はバリカンで整える。
 それも自分で毎日。
 面倒に聞こえるかも知れぬが、美容師の資格を持つ妻が、三日に一度はハサミで丁寧に切り揃えてくれるのでそれ程大層な作業でもない。
 今やその国家資格の腕前が振るわれるのは、僕の髭に対してのみ。
 言ってみれば、“お抱えの理髪師”…バックアップ体制だけは、本物の貴族顔負けである。
 何やら上から目線で”お抱え”などと言ってしまったが、僕の髭の正確な設計図は、妻の頭の中にしか存在しない。
 彼女無しでは、”髭男爵”というキャラクターの維持さえままならない。
 妻に言わせれば、僕の方こそ”お抱え貴族”といった所だろう。
 とにかく。
夫婦としては勿論、仕事面でも妻は重要なパートナーであり、“髭”は二人を結ぶ大切な絆なのである。 
 その朝も、僕は髭のメンテナンスに勤しんでいた。
 “T字”で輪郭、仕上げに“バリカン”…お馴染みの段取り。
 正直、毎日整えているので切る部分など皆無なのだが、 
 「…チュイン!」 
 時折、髭の一、二本分の小さな“断末魔”でも聞こえれば、 
 「よし…これで完璧!」
 大きな満足感を得られる。
 もはや、整えているのは髭ではなくメンタル。
 打席に入る前のルーティンワークというわけだが、その日は様子が違った。
 聞こえてきたのは、可愛い断末魔ではなく、
「ジョリ…ジョリジョリジョリジョリ!!!」
 首を刈られる大量の髭達の阿鼻叫喚である。
 あってはならない確かな手応えに、
 「うわわわ…やばいやばいやばいーーー!!」
 一人無様に取り乱す姿を、既に外出していた妻子に目撃されなかったのが唯一の救いである。
 慌ててバリカンを顔から離したが後の祭り。
 鏡の中で茫然自失の男の顔、その自慢の髭には大きな穴が開き、ミステリーサークルさながらである。
 「何故こんなことに…」
 その時…僕の頭を過ったのは昨晩の夫婦喧嘩の件であった。
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