
「夫婦仲いいね〜!」と言ってもらうことが、ありがたいことにとても多い。私はいつも、ほんのり口角を上げながら「そうですねぇ」と返事をする。その自分の返事に、なんとなく違和感を抱きながら。「そうですねぇ」って、何。なんか他人行儀じゃない? まるで、勝手に夫婦の仲がいいみたいな自分のお返事に、自分でイラつくことがある。自動的に夫婦の仲がいい、なんて。そんなわけがないのに。
愛は魔法じゃないのだと、結婚六年目にして改めて思う。この世に存在するすべての愛は、魔法ではない。愛は努力だ。徹底的な努力こそが、人間と人間を愛で繋ぐ。なので私は、私と夫である亀島くんの仲が良いことを、適切な報酬だと感じている。努力に努力を重ねてきた実感があるからだ。
もちろん、愛は努力だからといって、愛が不足している人が努力を怠っているとは思わない。愛は「努力ベース、からの運」でもあるからだ。もしかすると、この「運」の部分を、人は魔法と呼んでいるんだろうか。だとしても魔法とか言うのやめなと密かに思う。魔法は怠惰を生むから。努力で得た愛は、努力なしの一瞬の怠惰で簡単に失える。だから私は、愛を魔法と呼ぶことをやめた。
「被害者の匂い」の使い方
日々努力している。きっと亀島くんも、その実感があるだろう。めんどくせえなと思いながらも話し合いを続け、どう考えても一人の方が楽だと感じても、諦めないよう歯を食いしばる。例えば「もっと洗い物をしてほしい」という不満。これをどう伝えるか、六年間考え続けている。
「洗い物、私ばっかりやってる気がするんだよね」
私と亀島くんの関係が始まったばかりの頃、よくこういう風に「お願い」をしていた。今思うと、これは完全に失敗、どころか最低、醜悪で卑怯で姑息なコミュニケーションだったと反省している。まどろっこしい上にどこか被害者の匂いがするからだ。被害者の匂いの使い方には、かなり慎重になった方がいい。危険物取扱者の資格を持っていない人間が被害者の匂いを取り扱う場合、高確率で爆発する。だから私はできるだけ、この匂いを触らないようにしている。国家資格を持っていないから。
「自分ばかり洗い物をしている」という立場は、確かに被害者と考えることができる。だけどここで、相手に対して「被害者として」「要求する」場合、国家資格を持っていないと確実に失敗する。何故なら、被害者の匂いは伝染するからだ。「洗い物、私ばっかりやってる気がするんだよね」への返答として最も多いものは「でも洗濯は私ばかりしている気がする」だ(当社比)。こうなると、被害者の匂いの連鎖は止まらない。「でも掃除は」「でも風呂洗いは」「でも買い物は」この世の終わりまで続く「でも」合戦の幕開けである。自分の働きを自慢し合うだけの時間は不毛な上かなりの時間を食うため、やめました。やめましょう。
そしてこの「洗い物、私ばっかりやってる気がするんだよね」には、もう一つ大きな危険がある。要求が言葉になっていないことだ。この作法はコミュニケーションにおいてものすごく危険だ。「洗い物、私ばっかりやってる気がするんだよね」をより鮮明に書き起こすと「洗い物、私ばっかりやってる気がするんだよね(チラ)」になる。この(チラ)ほど悪質なコミュニケーションはない。察してほしいという気持ちは痛いほどわかるが、それでうまくいくのは関係性の初期、生まれたての時間だけだ。これはパートナーシップに限らないと思う。親子も、赤ちゃん対大人の間は「察してほしい」で関係性が成立するが、ある程度大きくなった子供対大人になるとそうもいかない。血のつながりがある家族だって魔法ではなく、両者の努力によって関係性は造られていく。
(チラ)と見ることで、相手に気づきを促すこと。自分の望みを、言外の内に叶えるよう仕向けること。それは卑怯だ。
- 1
- 2