パートナーを批判してもらいたい人たち
私と亀島くんがただ漠然と、魔法みたいに仲の良い夫婦だと思っている人間と時々出会う。そういう人間は何故か、パートナーとの失敗談を私に溢す。そしてその言葉遣いは、やけに自責的なものだ。「私が」「僕は」と畳み掛けられながら話を聞いているうちに、私は、あからさまにピースのかけたジグソーパズルを見せられながら「完成だと思いますか?」と聞かれているような気分になる。「ここのピースなくない?」と言うしかないように「それは相手が」と言うしかなくなる。「あなたは悪くないんじゃない?」と言うと、その人間は瞳を輝かせながら「いやでも私が」と続ける。
私は理解する。その人間たちは、自分の代わりに、私にパートナーを批判してもらいたいのだ。巧妙で卑怯だなぁ、と引きながらも、私はその要求に応える。「私がわがままなのは分かってるんだけど」とか「僕がダメだからなんだけど」という枕詞に含まれた目配せは、驚くほど力強くて、あぁ、この人を庇わないといけないんだなと瞬時に理解させられる。この人は、テコでもこの場所から動かないつもりなんだと感じる。永遠に「自分が悪い」と言いながら「相手が悪い」と訴え続ける。その努力はいったい何のためなんだろう。
自分が悪者になっても維持したい相手?
「長井さんたちが羨ましい」と言われて漏れそうになるため息を、すんでのところで吸い込んで、家に持って帰る。「愛がうまくいかないのはたぶんそういうとこでは?」なんて言葉は絶対に言わない。そこまで踏み込むほど、つまり努力したいと思うほど、大切な相手ではないからだ。自分が悪者になってまで、どうにかしたい関係性ではない。その人間たちにとってのパートナーも、そうなのかなと思う。自分が真の悪者になってまで維持したい相手じゃないから、ずっとチラチラしてんのかな。まぁきっと、そんなことないって言うんだろうけど。別にどっちでもいいけど。
愛は魔法じゃない。努力が魔法みたいな瞬間をもたらすことはあっても、愛自体は、魔法でどうにかなる代物じゃない。ロマンティックで生きていけるのはせいぜい数分で、それ以外のほとんどの時間、私たちは正気のままひたすらに努力を続ける。おかげで夫婦仲は今日も良好。私たちは常に、自分が被害者であり加害者であることを忘れないよう体をつねりながら、話し合いを続けている。もし、パートナーとの生活がうまくいかないときは「魔法じゃない」と思い出してほしい。そして、赤ちゃんみたいに察して欲しがっている自分がどこかにいないか、考えてみてほしい。大人の赤ちゃんは、それもう暴力バブよ。
Text/長井短
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