“等身大”という言葉にだまされるな!
ところで、ドラマや映画を評するときによく使われる、この「等身大」という言葉。 考えてみると、よくわからない言葉だと思いませんか?
この頃の深津絵里は、よく「等身大のOL」を演じて女性視聴者の共感を得たことになっていますが、あんな美人がフツーのOLやってる時点で、等身大ではなく十分「デカい」ですよね?
深津絵里…まあここは親しみを込めて、あえて「ふかっちゃん」と呼ばせてもらいますが、ふかっちゃんを見て「これって等身大のアタシだわあ」と思っている女性がいたら、その人はきっと自分のサイズ感を間違えてます。
採寸し直したほうがいいですね。
その等身大は、「華やかな芸能界」に生きる女優が、冴えないOLを演じて「アタシたちの世界」に降りてきてくれている、という「百歩譲った等身大」であることを忘れてはいけません。
ふかっちゃんは、やっぱり「深津さん」であり、「深津さま」なんですよ!
もっと言ってしまえば、ドラマや映画に描かれている「等身大」って、つまりは「冴えないOL」だったり、「しがないサラリーマン」「うじうじ悩んでる若者」といった状態に踏みとどまっている人たちの「現状を肯定してくれている」っていうだけなんですよね。
それって、現状に甘んじて、いつも楽な方を選んできた『恋ノチカラ』の籐子と同じではないでしょうか。
等身大の現状を抜け出せば、見えない“その先”だってある!
では、そんな籐子がどうやって「等身大」な現状にいる閉塞感から抜け出したのか。
それは、安定した大企業の職場を辞め、貫井の無謀な独立に付いて行くことで、自分の良さを見つめ直すことができたからです。
第8話で、籐子はミラノに海外赴任している元カレ・倉持勇祐(谷原章介)と再会し、プロポーズされます。
それまでの籐子であれば、「誰かに必要とされている」という喜びだけで、彼の申し出を受け入れたかもしれません。
しかし、彼女は結局、そのプロポーズを蹴るのです。
「私は貫井企画を選びました。それはたぶん、ここにしかない、何かがあるって思ったからで、それが何なのかまだよくわからないけど、でも、貫井さんについていけば、きっと見つかるんじゃないかって、そんな気がしてるんです」
誰かに必要とされているからではなく、自分がいたいからいる場所で、自分がいたいから一緒にいる仲間と、自分がやりたいからやることをやる。
そう決断したことで、彼女はアイデンティティを獲得し、貫井への恋心も自覚して、また恋をする力を取り戻すのです。
「先が見えているから」という諦めの、その「先」とは、あくまで現状から見えているものにすぎません。
「等身大」だと思っていた自分を踏み越えたときに、まだ見たことのない新しい「先」が見えてくる。そして、それは30代になってからだっていいのです。
『恋ノチカラ』が、今も女性から根強い人気と支持を受けている理由。
それは、「等身大」という閉塞感にとらわれた女性の「再生」を描いているからではないでしょうか。
そのエッセンスは、今こそ見直されていいものかもしれません。
Text/Fukusuke Fukuda
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