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  • 2017.04.20

無邪気マウンティングでふくらむ邪悪な感情

マウンティングって実際に動物としての逃れられない習性なのかもしれないとも思う。……そうであるとすれば、いっそこの際、健康的に殴り合うというのはどうだろう。

無邪気マウンティングでふくらむ邪悪な感情

家入明子 

 前回 は、東京に現存する華々しい社交界で生まれ育ったキラキラ女子、光の国の女子について書いた。宝石のように眩い輝きを放つ彼女たちを前にすると、「そりゃ私は光の国に住んじゃいないけれど、そこそこおだやかなひだまりの国で生きてる」っていう現状認識が途端にぐらつき始める。実はすっかり目が慣れてしまっていただけで、私、もしや暗黒世界の住人だったのではとすら思わされるのである。
ただごく自然に美しく、ごく自然に能力が高く、ごく自然に裕福で、ごく自然に裕福なパートナーと出会う。世の中に自分を排斥するものなど存在しないと言わんばかりに屈託なく他者に微笑みかけることができる彼女たちには、よもや他者を攻撃しようとか、服従させようとかいう意図があるようには思えない。
ところが、こちらは、そんな余裕のあるお姿を前にすればするほど、圧倒的敗者であることを思い知らされるのである。

 「マウンティング」と聞けば、多くの女性は「あるある」と一も二もなく思う。けれど実際のところ、私のほうがあなたよりこんなに美人よ、みたいな、分かりやすいマウントの取り方、取られ方することって滅多にない。なぜなら、分かりやすく誇示するやり方は稚拙で弱いって知っているからだ。じゃあなんでマウンティングを「あるある」って思うかと言うと、女性は大なり小なり、同性の誰かに嫉妬したことがあるからだ。嫉妬したのか、嫉妬「させ」られたのか、境界線は極めて曖昧。でも、嫉妬する側にまわるより、嫉妬させる側が強いってことは本能でわかってる。マウンティングは、どちらかが相手に嫉妬した(させた)時点で、勝敗が決まるのだ。

「無邪気が勝ち」という価値観

 光の国を夢見て泥臭く成り上がったセレブは、成り上がった先でどんなに涼しい顔を見せたところで、彼女の望むものを生まれながらに持っている光の国の女子には敵わない。相対的には他者の持ち物を「羨んだ側」だからである。
血のにじむ様なダイエットを続ける女優が、表向きには「美容法は、好きなものを好きなだけ食べること」って言うのや、何百万とお金をかけて美容整形した美人がそれをカミングアウトしないのも、努力して手に入れた美しさより、努力しなくても手に入った美しさの方が、同性にとってより羨ましいものだからである。つまり、女性という群れのトップに君臨するボスは、自分自身は誰を羨むこともせず、且つそんな姿勢でその他大勢を嫉妬させる存在、誰よりも「無邪気」でいられる存在でなければならないのだ。

 邪気がなければないほどよい、「無邪気が勝ち」という価値観は、考えてみれば世の中の至るところにはびこっている。一時期、女性たちがこぞって天然ボケキャラに憧れたのだって、天然ちゃんが「無邪気」そのものにほかならないからだ。見事天然という称号を得た女性が、そうでない女性にとってこの上なく鼻につくのだって、「無邪気」を独占されることによりマウンティングで劣勢に立たされるからである。
ただ、さすがに安易なアプローチであり、これが一般化した先には誰も生き延びられない不毛地帯が広がっているという事実に女性たちが薄々気づいた結果、天然キャラブームは下火となったように思われる。とはいえ、「男はどうせ若い女が好きよね」も「アイドルはウンコしない」なんかも無邪気至上主義によるもので、私たちは男性も女性も、とにかく無邪気な人が大好きなのだ。

それでも湧き上がる邪悪な感情

 そうはいっても、無邪気でいることって難しい。何しろ私たちの、本来真っ白な心を汚す「邪心」はふとしたきっかけで、風船のようにどんどん大きく膨らんでしまうものだからである。

 私たちはこの世に生を受けた直後から、良いこと、悪いことといった道徳を学ぶ。でなければ、社会が無秩序になって、穏やかに暮らしていけなくなってしまうからだ。でも、道徳心を持つのと同時に、非道徳的な行動の引き金となる邪悪な感情が、少なからず自分の中に存在していることにも気付く。具体的には先に述べたような嫉妬心や、憎しみ、嫌悪といったものだ。それらは本来、光あるところに影があるのと同じように、自分の中にあって然るべきもの。
ところが、ネガティブなもの、邪悪なものと定義されてしまったがゆえに、中にはそれを完全にないものとして、見て見ぬふりをしたり、がっちり奥底に閉じ込めたりしてしまう人もいる。そうするとどうなるかっていうと、ときに家族や友人といった身近な他者から、自分が閉じ込めた邪悪な感情が噴出するという驚きの現象が起きるらしい。

 これは学生時代、中2病をこじらせて読んでいた心理学の本に書いてあった話で、こういった学説は時代とともに評価が変わるものだし、現在専門の方々からどういう扱いを受けているのか定かではないけれど、少なくとも当時の私は大きな衝撃を受けた。実際、誰もが認める人格者の子供が、どうしてだか手もつけられないような荒くれ者になっちゃった、というような話を聞くにつけ、正しくあろうとすることと、それでも湧き上がる邪心と、折り合いをつけていくのは非常に難しいことなのだと思わされた。

いっそ健康的に殴り合おう

 人間として当然ウンコをするアイドルが「ウンコをしない」とされているように、今の世の中、男性も女性も不自然なまでに無邪気であることを望まれるし、好かれるためにそうあろうとする。けれど言うまでもなく、誰の中にも当然、邪気はある。怒りは怒りとして、妬みは妬みとして、沸き起こったものを適切に処理できない状態が続くと他者に投影されることもあるかもしれないし、そうでなければ本人が病んでしまうかもしれない。

 そもそもマウンティングなんて不愉快なもの壊滅すればいいと思うけれど、一方で、誰に教わったわけでもなく、誰に強いられているわけでもなく存在させてしまう以上、マウンティングって実際に動物としての逃れられない習性なのかもしれないとも思う。……そうであるとすれば、いっそこの際、健康的に殴り合うというのはどうだろう。
誰かの圧倒的な眩しさに足元がつい、ぐらつきそうになったら、「存在が嫌味!」「地べたを這うように努力して何が悪い!」って具合に、いっそ口を思いっきりへの字に曲げて、いじわるばあさんのように文句言ってみる。そしたら相手も「私だって死ぬほど努力してる!」って、健康的に言い返してくるかもしれない。そしたら、「やっぱそうだよね、ごめん」って謝って、抱き合ってお互いの労をねぎらい合ったらいいんじゃないか。
……そりゃさすがに横暴だと仰るようなら、せめて、無邪気な相手を前についあらわになった自分の邪気を悪者にするのをやめよう。世の中が世の中として立体的に存在するために不可欠な影の部分を、止むを得ず一身に背負った悲しいヒーロー、それがマウンティングされた「わたし」である。わたしが苦虫噛み潰した顔をして見せれば見せるほど、誰かがその分幸せになっている。人の幸せに貢献できるなんて素晴らしいことである。わたしを踏み台にして形成される他人の幸せを心から祝福しよう。

 おかしなことに私たち、いつもニコニコしてる人を差して「無邪気」というけれど、一方で喜怒哀楽、全ての感情に正直な人のことだって「無邪気」と言ったりするのである。確実にあるものを無視したり押し込めたりするのでなく、あることを認めて、発散させる、あるいは、中和させる。そんな風に、何らかの形で自分の中の邪悪な気持ちを適切に処理し続けていれば、今はぐらついてばかりの私の足元だってそのうち、ちょっとやそっとじゃ動じない、強度の高いものに仕上がっていくんじゃないかと、そんな風に思うのだ。


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Text/家入明子
From/SOLO

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