私たちの人生は生身の人間と関わらずに
生きるには少し長い

こんな風に書くと、もしかすると一部の人は「めんどくさい」と思うかもしれない。上野千鶴子さんの書かれた『女ぎらい ニッポンのミソジニー』という本の中で、こんな言葉が紹介されている。

「女は関係を求め、男は所有を求める」

彼氏が結婚を決断してくれないという女性のよくある悩みに表されるように、お互いの人生にコミットすることに男性の方が消極的、という問題はいろいろなところで耳にする。(男は所有を求める、という理屈で言えば、結婚に積極的なのは本来男性の方で良さそうなものだけど、現状、結婚によって所有者になるのは実質女性側という空気が強くあるのだろうと思う)
たしかに今の世の中、男性の性欲や自尊心を満たしてくれるものは、恋人以外にもたくさんある。時間を使って理解を深めるとか、そんなめんどくさいプロセス抜きに所有感だけを満たせるものもあるだろう。
そう思う人はそれで別に良い。身勝手に他人を利用しなければ、みんな自分の人生を、自分の責任のもと好きに生きれば良いのだ。

ただ、余計なお節介的に懸念を示すと、私たちの人生は、もしかしたら結構長くなってしまうかもしれない。発達した医療技術で、いやでも長生きしてしまうかもしれない。
そんな中で、健やかな精神を保ちながら、想定内のリアクションしか返さない相手としか過ごさないというのは、一見楽なように見えて、長い目で見れば実は結構、忍耐とか、ストイックさを必要とするんじゃないかと思う。いつ退屈に転んでもおかしくない予定調和を、ずっと調和として維持し続けるのっておそらく決して楽じゃない、賞賛されるべき偉業レベルなんじゃないかとも思う(そしてそこまで突き抜けると他者からも魅力的に見えたりもするけどそれはまた別の話)。
で、そう考えると、生身の人間との関係性を完全に断って生きるストレスと、生身の人間と関係性を深めながら生きるストレスって、結果的にはそれほど大差なかったりするんじゃないかと思うのだ。

誰かに好意を伝えたり、期待とともに関心のボールを投げてみたりするのには、たしかに勇気がいる。だけど、だからこそ多くの人が、誰かから先にそれをやってもらうのを待っている。
相手に向かっていい球を投げれば、相手はちゃんとキャッチしてくれる。自分と同じように相手が、もっとキャッチボールを続けたい、と思っているのがわかったとき、そこには童貞マインドでは知り得ない新しい快感が待ってる
男の子も、女の子も、株式会社童貞も、脱童貞マインドを目指そう。

Text/紫原明子
初出:2017.06.30