先日、成人の日に思い出したのですが、西日本の一部には明治末期まで「ふんどし祝い」という儀式が存在したそうです。

 男児が成人になるお祝いに、母方のおばさんからおニューのふんどしを仕立ててもらうとともに、セックスの手ほどきを受けたのだとか。

「初セックスができるけど相手は親戚のおばさん」。童貞が直面するにはあまりにハードな人生の岐路だけれど、「初体験で間違った穴に入れられる」女子の悲劇を思えば、小さな犠牲じゃないかとさえ思ってしまいます。

 うん、僕が選挙に出るならマニフェストには「ふんどし祝いの復活」を入れることにする。

「間違った穴の悲劇」を短歌に

 さて、このエピソードをそれぞれ短歌にしていただいています。

「ここ」「そこ」とふたりゴールを探してる おたがいのこと見えないままで(卯野抹茶)

童貞であればいいのに「入れる場所を間違えた」と言われたかった(リンダ)

 アナルとか肛門とか、直接の言葉を避けているところが、この連載と違って上品です。

 卯野さんの短歌は、単品でどこかに出したらプラトニックな青春短歌として読まれそうですね。たぶん意図的にそう書かれたのだと思います。

 短歌にはこういう「当初書かれたのとは別の解釈で読める」ということがよく起きます。昔、

雷がなる ゆっくりと君がいく 僕もいく また雷がなる

 という短歌を発表したとき、「荒野を進んでいく二人の友情が目に浮かぶようだ」みたいな評をもらってびっくりしました。もちろんセックスの歌なんですけど、いろんな読みかたがあるものです。

「想像の余地を残す」というのと「誤読を放置する」というのとは作者の態度としてはまったく違うので、そういう意味で僕の雷の短歌は失敗作と言えるのですが、ええっと、すいません、カタい話になりそうなのでどこかまた別の場所で。

 まあ、卯野さんの歌がどこかでほめられても、

「すいません、それ、アナルです……」

という告白を作者からするのは野暮みたいなので、墓場まで持っていかれるのが吉です。

 さて、僕がこのテーマで作るなら、こんな感じ。

あせってるあなたも好きだ いりぐちはそこじゃないけど教えずにいる

 心の余裕をスパイスとして加えてみました。正しい場所がわからなくてあせっている男を愛おしく見つめる感じ。

 気持ちをストレートなまま短歌にするよりも、ちょっと事実と違っても余裕や欲望を足してあげたほうが、リアルの重さという怨霊からは解放されやすい、かも。