「大恋愛に憧れるけど疲れちゃうよね」会うと少しドキドキする、恋未満の友人が30代にはちょうどいいかもしれない

「恋がしたい」って何?

by Muhammadh Saamy

正月休み、友人宅で『溺れるナイフ』を見た。2016年公開、小松菜奈さんと菅田将暉さん主演の恋愛映画である。東京から田舎町に引っ越して退屈している少女(小松菜奈さん)が、同じクラスになった地元の少年(菅田将暉さん)に出会い、強烈に惹かれていく。とにかくこの少年がかっこよすぎて! 思わず「あああ~~恋がしたい~~!!!」と叫んでしまった。

「えー恋がしたいっていうかさー、この映画の菅田将暉に出会いたくない? できれば自分が小松菜奈の状態で」と友人が言う。そりゃそうだ。「この海もおまえもぜんぶおれのもんじゃ」とか言ってる金髪の菅田将暉に会ったらみんなが彼に恋をしてしまう。だけど現実にはそんな人いないし、私たちは小松菜奈ではない。それでも恋がしたいと思ってしまう。

「恋がしたい」と言うとなんとなくキラキラした感じで聞こえるが、私の場合、たとえばデートに着ていく服を買いに行きたい。メッセージの通知が来ているかどうか何度もチェックしたい。もしも今日道端で相手に会ったらどうしようと想像したい。会ったときに話すことを考えたい。セックスでどんな顔をするのか妄想したい。そうだ、下着も新しくしておきたい。――という感じ。「恋がしたい」とはつまり、未来の一瞬の可能性をあれこれ考えて楽しみたいという欲求なのかもしれない。

始まりはドキドキして楽しい一方で、進むにつれて傷つき、傷つけ、期待し、裏切られ、ぼろぼろになっていく、それが恋だ。そういう意味では恋の始まりは地獄の始まりなのに、毎度ふらふらと地獄の門をくぐりにいってしまう。あまりに素敵な門だから仕方ない。

恋をするのも才能

テレビを見ていると、「相方のことをものすごく面白いと思って、芸人やろうってオレが何回も誘ったんですよ」などと言っている芸人さんが出てきたりする。そういうのを見るたび「ああ、才能だな」と思う。その相方さんもすごいのだろうが、それよりも、彼に魅了され、彼を「ものすごく面白い」と確信し、芸人という職業に誘いこむということは、才能がないとできないと思う。

人に恋をするのも、一種の才能と言えるかもしれない。相手の魅力にみとれ、自分がその人を好きだと確信することは、誰でもいつでもできることではないだろう。

私自身は基本的に恋ばかりしているので才能がある方かもしれないが、仕事の忙しさで精神的に余裕がなく、全く恋愛に気持ちが向かない時期もあった。転職することにして有休を取りはじめたら一気に3人くらい好きになったので、恋をするかどうかって周りに魅力的な人がいるかどうかより、恋する側のモードの問題が大きいのだなと思った。

「私が欲しているのは体を貫くようなまばゆい閃光だけなのだ 目が回るほど、息が止まるほど、震えるほど――」

これは映画『溺れるナイフ』で少年と一緒に海に落ちた時の少女のモノローグ。退屈な田舎で、体がおかしくなるほど強い刺激を欲した少女は、震えるような恋に落ちていく。

恋がしたいと思ったら、退屈でいた方がいい。パンを食べて感動したいと思ったら空腹でいた方がいいというのと同じことだ。パンを食べなくても満ち足りているならそれはそれでいいし、空腹ならパンを想像以上においしく食べられるかもしれない。