今がどれほど満たされていても……
以前この連載でアガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』を取り上げたことがあるけど、あちらが既婚女性の不安や孤独や薄寒さを描いた小説であるなら、こちらは既婚男性のそれであるということができるかもしれない。地位があって、仕事があって、お金があって、愛する家族がいて、これ以上何を望む? というときですら、人生には不気味な穴が、すぐ先にぽっかり大きく空いている。
穴に落ちないようにするのは至難の技だ。というか、落ちないように気を配り、穴の存在を無視すればするほど、大きく口を開けたそれが、すぐ足元まで近づいている。『春にして君を離れ』もそうだったが、こちらも、大好きな人たちと幸せな時間を過ごしているときにこそ読みたい小説だなあと思う。男性が主人公だけど、女性の私でもすごく「わかる」話だった。
若い頃、あるいは独身だと、”不気味な穴”の存在はけっこう身近だ。だけど、年齢を重ね、地位や収入や家族関係が安定してくると、本当はずっと近くにあるその穴を、多くの人は見ないようになる。『出かけるって女たちに言ってくるよ』は、そんな状態の人たちへの警告かもしれない。
ビルとジェリーの「声を出さずに上げるSOS」を感じながら、自分自身からもそんな「助けて」のサインが出ていないかどうか、胸の内で確認してみるのはどうだろう。今がどれほど満たされていても、不気味な穴はいつだって、大きく口を開けてあなたが落ちるのを待っているのだから。
Text/チェコ好き(和田真里奈)
初の書籍化!
チェコ好き(和田 真里奈) さんの連載が書籍化されました!
『寂しくもないし、孤独でもないけれど、じゃあこの心のモヤモヤは何だと言うのか -女の人生をナナメ上から見つめるブックガイド-』は、書き下ろしも収録されて読み応えたっぷり。なんだかちょっともやっとする…そんなときのヒントがきっとあるはすです。
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