「求められている自分」を演じることについて考えた、リモート会議/あたそ

違った一面を目の当たりにして

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人間関係において役割というのは必ずあって、どんな人でも環境や相手によって使い分けているのだと思う。

例えば、会社の人だってそうだ。1カ月も続く在宅勤務のなかでミーティングをするとなるともっぱらZOOMを使うことが多い。すると、普段生真面目に働いている人の背後から子どもが遊んでいる声や猫の鳴き声が聞こえたりするのだ。その声をたしなめたり、「すみません……」と謝られるのだが、なんとなく和やかな雰囲気に包まれる。少しずつその人の生活が見えてくる。私が会社で見ている姿は一面でしかないと知ってはいたが、やはりそのギャップがおかしく、とてもいい機会だった気がする。在宅勤務の利点であるように思う。

でも、まあ今の時代ってこんなもんだよな。スマホの小さな画面のなかが自分を証明するもののひとつで、それをすべて消してしまえば、私というどうしようもない存在を他人の記憶から消すのは案外簡単なのかもしれない。そんなことを当時はなんとなく考えていた。

私も環境や相手のよって態度や性格がかなり異なる方だ。基本的に自分の書いた文章と人格が乖離していて明るく陽気な人間なのだが、会社だといっそう突き抜けたものになる(と、思う)。できるだけ多くの人に「明るくて話しかけやすい人」として認識されている方が仕事がしやすいからだ。私は仕事ができる訳でも、向上心がある訳でもない。だからコミュニケーションくらいは円滑にしておかないとね……ということで、自分の居心地のよい場所を作ることができている。

男友達に対してだってそうだ。気を持たせるような素振りは絶対にしないように心がけている。それは、私たちが友達だからで、私なりの誠意の見せ方のひとつだ。性別なんて、そんな些細なものは関係ない。人としてできるだけ平等でありたいと思う。だから、女としてどう思われているのか、ということが気にならない。不必要な女扱いもかなり鬱陶しく、目障りなものに感じる。

これは八方美人とか、性格が悪い(まあ、私は性格も口も悪いのですが…)とかではなくて、うまく生きていく方法なのだと思う。私のなかでは、人の肩書きや知名度で態度を変えなければ、それでいいんじゃないかということになっている。