良くも悪くも、求められる「自分」を演じてしまう

では、女友達が相手の場合はというと、私は恋人とか男友達という役割を割り当てられることが多く、中・高校時代なんて特にそうだったように思う。背が高くて、スポーツが得意で、はっきりした性格で、男女隔てなく友達がいて。疑似恋愛とまではいかなくても、大体その役割に押し込められる。常にかっこいい振舞いをしていなくてはならない。どうでもいいような人の悩みをいつも親身になって聞く。常に決定権を持ち、判断を任される。友達に好きな異性ができたら仲を取り持つ。強制されたわけでもないから、なんだかんだ、私には自然体でいやすい役割なんだと思う。

それでも、窮屈に感じることが多々ある。少女漫画、恋愛小説を読んでいると「え~意外だね、そういうの興味あるんだ」と言われたり、少しでも相手の思い描く「かっこいい」人格からはみ出ることを許されなかったり、いつまでも頼られる側でなければならなくて、でも私が一番になることは決してなく、女友達に新しい恋人ができた途端に私への興味の割合が目に見えて低くなっていくのがわかるからだ。普通にしていたつもりだけど、今考えてみると、その謎の脅迫観念みたいなものが強くあったような気がする。自分で選んだはずなのに、決まった形に収まらなければならない強制力みたいなものを感じ、モヤモヤとした居心地の悪さを感じる。そして、やっぱり恋人という存在は絶対的なんだな、と思ったことは何度も何度もあった。

自分も含めて、人は一度「この人はこういう人だ」と思い始めると、なかなか軌道修正ができない。想像と異なる一面を見出すと、意外に思ったりする。役割を与えられると、無意識のうちにその人の考える“自分”からはみ出さないようにしている節がある。

今日の自分はどうだったんだろう。どう見えたんだろう。そういうことを、私は飲み会の帰りの電車の中や、仕事中ふと手が止まったときに考える。自分は周囲の人が思う、自分の役割にきちんと応えることができていたのだろうかと。そう思うと、自分が一体どこにいるのかわからなくなってくる。私はいつまでも人に失望されることや嫌われることが怖くて、顔色を伺っているだけなのかもしれない。

Text/あたそ

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