この薄気味悪さはSNSに似ているかも

小説の中で、はっきりとした答えらしきものは実は最後まで提示されない。おそらく主人公「黄色いカーディガンの女」は「むらさきのスカートの女」が自分と同類で、ゆえに友達になれると思っていたが、実際のむらさきのスカートの女は主人公のイメージとはちょっと違う人物で、最終的に裏切られる……という話なのかなと私は思ったけれど、これが正解なのかどうかはわからない。

この小説の薄気味悪さって、相手は自分の存在を認知しているかどうかも怪しいレベルなのに、自分だけは一方的に相手のことにめちゃくちゃ詳しいという、今の社会のSNSにちょっと似ているところにある気がする。そして私は、どうしようもないことだと思いつつも、その情報の不均衡さに耐えられない。相手に勝手なイメージを付与していないか、あるいは自分が付与されていないか──『むらさきのスカートの女』を読んで、私はついそんなことを考えてしまった。

この小説が必ずしもSNSを想起させるわけではないけれど、他人との距離感に悩んでいる人が読むと、斜め上からのヒントを得られるかもしれない。

Text/チェコ好き(和田真里奈)