今となってはもう15年くらい前の、大学生時代。先輩から「将来のために英語とITはわかるようになったほうがいい」的なことを言われたものの、当時の私は年間300本の映画を観るのに忙しく、「英語? IT?? そんなつまんなそうなことできるか!」と一顧だにしなかった。
あれから15年経ち36歳になった今、まあ先輩の言っていたことも間違ってはいなかったと思うし、英語やITの勉強だってつまんなくないよ、楽しいよ!と感じるようにはなったものの、タイムスリップして大学生時代に戻ることができたとして、私が英語とITをちゃんと学ぶかは疑問である。将来実現したい像から逆算してスキルを身に付けたり資格を取ったりする思考が私は破滅的にできなくて、いつも「今の自分がいちばんやりたいこと」を優先してしまうからだ。先輩の言っていたことを「一理あったな〜」と思えるようになったくらいしか、この15年間、私に進歩はなかった……。
しかし私みたいなタイプの強みは、環境適応能力が高い(かもしれない)ことである。そもそも計画が何もないので、不測の事態が起きたときに比較的簡単に頭を切り替えられる。いちばん強いのは計画をきちんと立てて、かつ計画通りに行かなかったとしても対応できる柔軟性を併せ持つタイプの人だが、そんな有能な人間にはなかなかなれないので、ほどほどのところで諦めている。
ただし計画性はなくとも、それによって今の自分の行動を規定されることのない未来について考えるのはけっこう好きだ。今回語らせてほしいのは、テッド・チャンのSF短編小説集『息吹』。新しいテクノロジーの誕生が私たちの思想や生活をどう変えるのか――そんな物語に対する興味は尽きない。
育児は人間が行うべきか、機械が行うべきか
『息吹』には9つの短編が収められている。特に私の印象に残ったのは、育児のすべてをマシンが行う未来が訪れたとしたらどんなものかを考える『デイシー式全自動ナニー』と、生まれてから死ぬまでをすべてパーソナルカメラで録画し続けたら私たち記憶はどうなるかを考える『偽りのない事実、偽りのない気持ち』。
『デイシー式全自動ナニー』は冒頭で、育児のすべてを自動で行ってくれる全自動ナニーを開発したレジナルド・デイシーの開発動機が語られる。
デイシーは息子の世話の一部を自分で雇ったナニー(乳母)に任せていたが、のちにナニーが息子を虐待していたことを知り、ショックを受け全自動ナニーの開発に至る。開発にあたって、デイシーは自分の子育て哲学をそっくりマシンに叩き込んだ。ナニーの気分に子供が振り回されることのない、「ムラ」のない育児が大切であること。罰を与えすぎることと愛情を与えすぎることは同様に有害であること。そして開発された全自動ナニーは、発売にあたって以下のような広告が掲載される。
「あなたの大切な子供を、素性もよく知らない女性に世話させていいのですか? 特許取得済デイシー式全自動ナニーで、現代科学の最先端を行く子育てを体験してください。(中略)⚫︎夜も昼も働き、独立した居室を要求することも、盗みを働くこともありません。⚫︎外聞をはばかるような悪影響をお子さんに与える心配はありません」
しかし、この全自動ナニーは短い間人気を博したものの、誤作動によって起こした事故によって子供を死亡させ、すぐに世の中から忘れ去られてしまう。やはり機械による子育ては不可能なのか。実の親でなくても、情操教育の観点から人間に育てられたほうがいいのか。ところが、物語は意外な結末を迎える。機械がいいとも人間がいいとも言えない。『デイシー式全自動ナニー』を読んでわかるのは、「完璧」など追求できないということだけだ。
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