年末に差しかかり「年賀状を出さなきゃ」といそいそと準備をする友人たちを見て、私は毎年、地味に驚いている。というのも、私が最後に自分から年賀状を出したのっておそらく15年以上前、高校2年生のときだったのではないかと思うからだ。高3のときは受験で年賀状を用意する暇はなく、大学に入って以降は、友人たちへの新年の挨拶はメールやLINEで済ませてしまっている。
おそらく30歳以降になっても年賀状を用意している人は多くが既婚者で、義実家との付き合いとかの関係で年賀状のやりとりが発生しているのかな? と推測しているが、恥ずかしながらいまだに実態がよくわかっていない。みんな、年賀状って誰に出してるんですか……?
会社員だけど週4勤務だったり独身だったり文筆業をかじっていたりと独自の生活形態で生きているせいか、普段はこういうことを意識する機会ってあまりなかったりもする。そういう意味では、年末年始ってやっぱり特別なんだと思う。人里に降りてきた狸のようにたまにびっくりしては再び山の中に帰っていくのを繰り返しつつ、私はこれからも年齢を重ねていくのだろう。
普通に生活しているだけでもびっくり狸状態になることはそれなりにあるけど、そのびっくり狸状態に自ら頭を突っ込んでいく海外旅行を、2023年こそはしたい。ただしこの年末年始はまだ家で過ごすことになりそうなため、連休中にセルフびっくり狸をやるべく、今回はダニエル・L・エヴェレットの『ピダハン』について語らせてもらう。
目の前で人が死にかけていても手助けしない
本のタイトルである「ピダハン」とは、アマゾンの奥地に暮らす少数民族の名前である。著者のダニエル・L・エヴェレットはキリスト教福音派の伝道師として、そんなピダハンの村を訪れる。ときに命の危機に晒されることもある厳しい自然環境の中で共に暮らしながら、著者はピダハンの文化に右/左や数の概念、色の名前、神や創世神話が存在しないことなどを知っていく。そして最終的には、そんなピダハンの世界観に衝撃を受け、教えを伝導するどころか逆に無神論者になってしまったというのだ。『ピダハン』はそのフィールドワークの様子が綴られた、ノンフィクションである。
数の概念がないのは私たちでもなんとなく推測できる気がするけど、けっこう驚くのはピダハンの語彙に「ありがとう」や「ごめんなさい」に相当する言葉がないことではないだろうか。でもそういえば、ボルネオ島の狩猟民族「プナン」と共に暮らした著者による『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと(亜紀書房)』という本もあるし、感謝と謝罪に相当する言葉がないのって少数民族あるあるなのかもしれない。感謝も謝罪も、彼らの間では言葉ではなく、返礼品などの具体的な行動によって示されるのだという。
他にも、ピダハンは著者の家族が病気で生死の境を彷徨っていても、手助けしてくれない。なんて薄情な! と私たちは思うけれど、彼らにとって生死の境を彷徨うのは日常の一部なので、いちいち大騒ぎしないというのが実態らしい。出産する村の女性が水辺で死にかけていても、彼らは無視する。数時間経つと女性は死んでいる。親しい人が死ぬと悲しむが、その後はあまり話題に上らなくなる。それが日常らしい。
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