Instagramにある「村」

話は変わって。
Instagramを見ていると、テレビに出ているような有名人というわけではないけど大御所感あってやたらとすごい人とつながっている人というのはいる。アパレル系ファッション系なんかがそうだ。
そういう大御所っぽい人にどうやら気に入られているのか、仲が良さそうに時々彼らのインスタに登場してくるやたらと若いモデル。こういうのを見ると、「この大御所みたいな人と仲良いモデル同士の関係性はそんなに健康的ではなかろうな」だとか「この人に気に入られているモデルに対して激しいジェラシーを抱くモデルは何人いるだろうか」などと考えてしまう。

私はこれがすごく村だなと感じる。
東京の中にある村。持ってして生まれてきた人でなければ中に入れさせてもらえない村。
多分中では相当な争いや揉め事があるのだと思う。決して外で彼らが語ることのない悩みがその中に潜んでいるのだろう。
そんなことを想像するのがどうも最近の私の暇つぶしのようである。

まあ結局人には人の苦悩苦労があるということだ。
私はInstagramで華やかに見えるアーティストやファッション系の人を見ると本当に悔しくなる。
生まれや育ちの格差、顔面レベルの違い、武器にできるものの数の圧倒的差。
私は持たざる者として生まれてきてしまった。毎日毎日鍵垢で私は「顔面が良かったら絵もきっと高く売れるだろうし仕事も来るだろうしフォロワーも喜んだはずだ」みたいなことを呟いている。
実際顔が可愛い人が絵を描いているってことがわかったら見る目が変わるだろう?
個展を開けば絵も見たいけど何よりもまず「会って顔を生で見たい」が勝っているだろうし、顔が良い人が描いた絵のほうがなんか価値があるように感じるはずだ。アートへの基礎教養が何もない人はそこで判断するしかない。それはその人が悪いのではなくて、日本の美術教育の敗北だ。だから彼らを責めることはしない。
しかしだ。顔を武器にしているつもりはない人たちを見ると、こちらは武器にできないのだから、それはもうしんどい気持ちを抱えてしまう。語れるご立派な経歴も、親も持たない。彼らはそれを自慢気に表に出しているわけではない、あくまで信用を得るために出している情報に過ぎない。そうとわかっていても、やはり、比べて劣等感を覚えてしまう。

それでも、持ってない人は…

持ってないものはしょうがない。これで生きるしかない。もしかするとこんな私ですら華やかに見えてる人がフォロワーの中にはいるかもしれない。たいして仕事の告知も宣伝もしてない(仕事してないから)のに私のことを売れてると呼んでくる人がたまにいるくらいなのだ。
だから結局これはキリのない話なのである。
しかし、私のようにこんなジェラシーを抱えた文章を載せてしまうイラストレーターは多分どこにもいないんじゃなかろうか。ここまでのものを抱えていないか、あるいは抱えたままひっそりと生きているのか。

イラストレーターをやっていていいなあ。かっこいいなあ。私もなりたいなあ。有名人にフォローされてみたいなあ。そんなことを私を見て思っている人はこれを読んでどんな気持ちになっただろう。
すごく汚いものを見せてしまった気がするけど、私はやはり今も相変わらず底辺のクズです。意外と中の人ってそんなものなのかもしれませんね。

Text/oyumi