「みんな」と同じでないと世界が終わってしまう感覚
大人になってから思い出すと、視野が狭すぎてアホらしくなってくる。友達でいる必要もないと今なら思うし、現に連絡を取っている同級生はひとりもいない。けれど、中学生の頃の私はあそこでできた人間関係がすべてだったし、少しでも仲間外れにされ、いじめられれば、世界のすべてが終わると心底思っていた。結局その後、特に理由もなくいじめられることになるのだが。
私にとって、ヴィトンの偽物の財布、COCOLULUのデニム、BLUE MOON BLUEのパーカー、Jassieのスカート、その他たくさんのブランドたちは私にとってはお守りのような存在だったのかもしれない。いい思い出だけど、少し馬鹿馬鹿しいなとも思う。でも、あの頃の私はそうするしかなかった。ほかに選択肢がなかったのだ。これも、私が横浜に住んでいて、横浜駅にさえ行けばなんでも手に入るから。だからこそ、もっと欲しくなる。ブランドものなんて、珍しくもなんともない。色々なものの要求のレベルが上がってしまったのかもしれない。
GUCCIの財布の価値は大人になった今でもわからない。でも、「みんな」と同じものを持っていないと世界が終わってしまう感覚は今でも鮮明に思い出すことができる。もう二度と戻りたくない。本来の価値のわからぬものを持たねばならないところにも、その狭い価値観のなかで生きていかねばならない横浜にも。
Text/あたそ
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