一過性の感情だとしても、自分のなかに積み重なっていく

「好き」という言葉をひとつずつ丁寧に解体していくと、本当に色々な意味合いが込められているのがわかる。音楽に関して言えば、ライブを全通する人、毎回ブログでライブレポを書く人、CDをフラゲする人、いつも通勤・通学時に音楽を聴いている人、1曲だけ何百回も聴き込んでいる人、昔の作品だけが好きな人、有線で聴いて「この曲いいかも」と思った人、テレビやラジオに出ると必ずチェックする人、気持ちの質は異なるのだろうが、どの感情も「好き」に当てはまる。

私は、自分の知識欲をどんどん満たしたい。知らない音楽をもっと知りたい。だから結果として自然と色んな国の色んなジャンルの音楽を知ることになるのだが、そうなると同じ音楽を何度も繰り返し聴く機会が少なくなる。でもそれは、「好き」の定義に当てはまらないのだろうか? そんな風に考えている。 

「詳しい」という言葉もそう。趣味ものを知れば知るほど、深くまで潜りこめば、それだけ話の合う人に会えなくなる。実際に私は音楽だけではなくて読書、映画、旅行と色々な趣味があるが、ぴったり合う人に今まで出会ったことがない。これは好きだからこそなんじゃないか。「詳しい」に水準はどこにあるのだろう? 自分より詳しい人なんて、世の中にはもっとたくさんいるはずなのに、誰かに紹介されるとき「詳しい」「オタク」という言葉を使われる度、少しだけ恥ずかしい気持ちになっている自分がいる。

つまり、「好き」という気持ちは他人が定義するものではないんだと思う。「今の若者は自分が本当に好きな音楽がわからない」なんて、絶対断言できない。そもそも、「若者」の定義も広すぎる。気持ちの重さは測れないし、目に見えない。少しでも「いいな」と思ったら、素直にその気持ちを認めてあげるべきだ。

別に「本当に好き」かわからなくたっていい。一過性の感情だったとしても、その感情も思い出も、たしかに自分のなかに積もっていく。「好き」の気持ちを自分なりに広げていける、満たされる方法があれば、それでいいんじゃないか。そこで話の合う人が見つかればさらに素晴らしいというだけで。「本当に好き」ってなんなんだろう。別に誰が何を好きでいようが、気にしなくていいじゃんね。

私は知識ひけらかしおじさんから「俺が認めてやった女」としてさんざん扱われてきた。うるせえうんちくとか、どうでもいい豆知識を耳が痛くなるほど聞かされて「面倒だけど、まあしょうがないか」と思っていた。だから自分がおばさんになりつつある今、同じことを繰り返したくはないのだが、幸か不幸か、年下の知り合いがほとんどいないからその機会も自然とない(はず)。他人の「好き」がどんな形であれ、きちんと認めてあげられる大人になりたい。当たり前で、簡単なことだと思っていたけど、それって案外難しいのかもしれない。

Text/あたそ

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