好きだと思ったわたしも批判されるべき存在なのか

今回の楽曲担当の件で、彼はやっと謝罪をした。今まで幾度となく問題にあがったが、毎回無視を決め込んでいた。やっとだ。本来ならば、もっと早期に対応すべき問題だったのだろう。追い詰められた末にやっと謝罪の言葉を表明した、とも受け取れる。私は彼が許せないと思うし、どれだけ音楽が美しくて、胸を打つものであったとしても、彼の作る音楽を聴きながら、演奏に耳を傾けながら「ああ、この人は同級生を虫けらのように扱い、それを平気な顔して雑誌で話してしまう人なんだ」と今後も考えてしまうんだろう。

でも、と思う。数年前のフジロックの、夜にさしかかったGREEN STAGE。あの時のコーネリアスはゆっくりと『あなたがいるなら』の演奏を始めた。一音一音をたしかめるように、ゆっくりと。

フジロックは自然に囲まれたスキー場で開催される。広い会場からは、ステージからだけではなくて、色々な音が聴こえてくる。たとえば、人が話す音、大勢が歩く音、木々が風に揺れる音。きっと、あの場でも色々な音がしたはずだったのに、あの日あの時のフジロックには、コーネリアス以外は存在していないみたいだった。

私はどこかに移動する途中で見る気なんてまったくなかったのに、見事に足を止めてしまった。いじめの件はもちろん念頭にはあって罪悪感みたいなものが心のどこかにはあったのだけれど、「これは見ないといけない」と思わされてしまった。

ステージの背後にあるスクリーンにはモノクロの映像が映され、辺りは真っ暗で静まり返っている。シンプルな曲で、冷たい手でゆっくりと心に触れられるような、ほかの目当てだったアーティストなんてどうでもよくなってしまうほどの圧巻のステージだった。泣いてしまいそうになった。なんてやわらかくて、優しい音楽なんだろうと思った。あのライブに価値がないのなら、私は音楽の何に価値を見出せばいいのだろうか? やっぱり、私は彼の作る音楽が好きなんだ、心からそう思ってしまったのだ。

価値観が揺らぐ。たしかに、この音楽を作った人はひどいことをした。許されるべきではないし、私はずっと許せないと思う。では、この音楽に罪はあるのだろうか。聴くべきではないのか。まったく価値のない作品なんだろうか。彼の作る音楽を心から「好きだ」と言えるファンを一緒になって凶弾すべきなのか。家族も同罪なのか、同じように反省すべきなんだろうか。この音楽の存在を心の隅で認めてしまう自分は、どこかの誰かに批判されるべき存在なのだろうか。

小山田氏の音楽を聴いていると、音楽とそのアーティストの人格についていつも同じことを考える。このまま順当にいけば、次は8月末のフジロックで、私は氏の音楽を聴くことになるかもしれない。どういう気持ちで立ち会えばいいんだろう。まだわからないでいる。

Text/あたそ

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