ノーマルな生き方

フツウの人は、世の中を決して変えられない

girls' night out By inroyelephantphotogaraphy girls’ night out By inroyelephantphotogaraphy

 現在の大統領が選出されたとき、メディアは一斉に彼を“normal”と評しました。ノーマルであること。それは「凡人」であること。そういえば小泉元首相が選出されるときに、「凡人軍人変人」と酒飲みすぎ風のダミ声で田中真紀子氏が繰り返し叫んでいたのを思い出します。
あの時も結局「凡人」の小渕氏が総裁に選ばれ、首相になったのも、リンクしています。パッとしない、フツウのオヤジが大統領になっちゃったよ、あーぁ。ため息交じりでもありました。が、逆にあのぎらぎらして現役感ハンパないイケイケドンドン型のサルコジは「イヤ」だったフランス人が如何に多かったかがわかる選挙でした。
ここまで「ノーマル」な人が期待されない理由は、「ノーマル」に生きてきた人間には、現在の社会は変えられないことを知っているからかと思います(変えることがいいことだとは限らないけれど)。

 それまでの社会でフツウに生きられてきた人は、その社会でそこそこ生きられてしまった人。ということは、特に不満があるわけではなく、疑問もなく、何も今の社会を変えなくても生きられるのです。そういう人に、「社会を変える」ことは無理。変革を及ぼす人は、それまで「フツウ」とされてきたことを、「フツウじゃないよ! おかしいよ!」と言える人。その社会では楽に生きられない、「フツウじゃない」人でないといけない。

 それと同じように、実は今の自分をもっと幸せにしたいのであれば、自分から見て「フツウじゃない人」を選ばないといけないはず。自分を変えていきたいのなら、周囲の環境に疑問を呈するような男性がベター。 で、オランド大統領はフツウなのに、大丈夫だろうか? と心配していたのですが、ファーストレディがフツウじゃなかった! 結婚もしてないし、契約もしてないし、ジャーナリストで男のよこっつらひっぱたくし、オバマ夫人に外交のお礼をツイッターでしちゃうし……なるほど、フツウじゃない女性を選んだ時点で、やはりこの大統領フツウじゃなかったです。

フツウは捨てる必要がある

 現在米テレビ局で「The New Normal」が制作されています。クリエイターはあの「Glee」も担当するライアン・マーフィー。自身も同性婚を果たした新しい形の“フツウ”を体現した人ですが、内容がまた代理母とゲイカップルのお話というから、また私生活を地でいくんじゃないかと言われています。
 が、放映する局のネットワークで一部モルモン教が経営に入っている局があり、そこでは放送しないことを決定したとか。アメリカの「“フツウ”の家族観を守りたい!」と頑張るキリスト教系団体が、“新しいフツウ=new normal”を否定しにかかるとは、まったくもって“フツウ”を求める団体の如何に押しつけがましい事か、月に代わってお仕置きしたいくらいです。“フツウ”とはやはり“コミュニティの規律”ってことなのかと嘆息。蛇足でした。 「フツウ」は社会のバロメーター。

何を「フツウ」とするかでその社会が一体何を一番としているか、スタンダードとしているか、何を幸せとしているのかがわかります。でも、社会とは「フツウ」を常に変えて行くことで常に変革していくもの。そうでないと、「フツウ」じゃない人がいつまでたっても「フツウ」になれない不平等な社会であるということですから。

 ということは「フツウの男性」を選ぶ人は、社会で既に「幸せ」とされている基準に当てはまる男性を欲しているということで、いわば「既得権益が欲しい人」ということになります。なんて図々しい。 そんな図々しい「既得権益奪取」が繰り広げられた結果、世の中で年金問題や天下りが跋扈するようになっているとするなら、さっさとそんな「フツウ」は捨てる必要があるのかもしれません。

Text/Keiichi Koyama