新しい時代へ!「いわゆるビッチ像」を乗り越えていく、森瑤子の『情事』

「いわゆるビッチ像」を越えていく

掃除婦のための手引書 Cris Trung

「ビッチ」という言葉に、私は昔から疑問を抱いていた。

この言葉からイメージされる女性は、なんとなく、セックスの経験人数が多そうな気がする。なんとなく、倫理観が欠如していて、ステディな彼氏ではなくてもその日会った人とか男友達とかと、カジュアルにセックスしそうな気がする。そして、なんとなく、セックスが大好きそうな気がする! もちろんこの通りの「ビッチ」も世間にはいるだろうが、実は私のまわりには、このようなステレオタイプの「ビッチ」はいない。

たとえば、知人Mちゃん(32歳)。彼女は倫理観が弱く、ステディな彼氏ではなくても「いいな」と思った人であれば、その後に付き合うとか付き合わないとかは関係なく、男友達とでも既婚者とでも寝てしまう。だけど趣味に仕事に忙しいMちゃんはそもそも男性への興味があまりなく、「いいな」と思う人と出会うこと自体が少ないため、そんな薄弱な倫理観の持ち主であるにも関わらず、経験人数は両手の指の数に満たなかったりする。一方で、知人Sちゃん(30歳)は、経験人数が30人に届きそうな強者だが、ステディな彼氏以外とのセックスはしないという純情派で、経験人数はそのまま付き合った人数であるだけだったりする(人数がやたら多いのは、付き合って数ヶ月で別れる、を繰り返していたことがあったのだとか)。

この場合、はたしてMちゃんとSちゃん、どっちがより「ビッチ」だろうか?

こういった例をたくさん知っていくと、私たちがよく知っているいわゆる「ビッチ」の像が、どんどん溶けてなくなっていってしまう。倫理観が欠如しているからといって必ずしも経験人数が多いわけではなく、その逆も然り、経験人数が多いからといって必ずしも倫理観が欠如しているわけではない。新しい時代のビッチはこんなふうに、従来の「いわゆるビッチ像」を乗り越えていくところから始まるのではないかと、私は思う。

セックスを、反吐が出るまでやりぬいてみたい

ところで「ビッチ」というと、経験人数が多い・倫理観が欠如している等に加え、つい20代で未婚のお嬢さんを連想してしまいがちだ。30代にもなって「ビッチ」はイタイし、まして結婚しているならそういうのからは卒業で、女性は出産や育児のフェーズである。「ビッチ」になどなりようがないと、みんな思っている。だけど私が今回紹介する森瑤子の小説『情事』は、30代半ば、既婚、子持ちの「ビッチ」が主人公だ。

ヨーコはイギリス人の夫を持ち、一児の母で、翻訳の仕事をして暮らしている。何不自由ない生活を送っていたヨーコだったが、33歳を過ぎたあたりから、「自分はもう若くはないのだ」という思いを深めていく。あと何年かしたら、男達はもう自分を振り返って見なくなるに違いない。そしてそんな思いが深まると同時に、性愛に対する欲望と飢えは強まっていき、セックスを反吐が出るまでやりぬいてみたいと、ヨーコは願うようになる。以後、六本木のバーで知り合った男を中心に、ヨーコはさまざまな男と「情事」を交わすようになるのだ。

『情事』の読みどころは、とにかく、そのエロシーンにある。……というと、ある人からは笑われ、またある人からは怒られるかもしれないが、私は大真面目にそう考える。デイヴィッド・ホールと過ごした、夏の別荘地。茂みに隠れての、下品で、あられもないセックス。レイン・ゴードンと過ごした、六本木の夜。お互いの肌に噛み付いて血が滴る、獣のように獰猛なセックス。そこには「私たちってこれから付き合うんだよね?」という確認も、「そろそろ私たち、結婚とか」という打算も、子供をつくるという生産性も計画性もない。ただエロスが、官能だけがあるのだ。もちろん、恋人になる前のセックスや恋人・夫婦間のセックスに、エロスや官能が存在しないわけじゃない。だけどそれにしたって、性に目覚めたヨーコのセックスライフは豪華絢爛である。「自分はもう若くはないのだ」なんて大嘘だ。というか、なぜ私たちは「ビッチ」を、若者のもの、未熟者のものと決めつけてしまっていたのだろうか?