村上春樹文体模写で恋愛が好きになる小説/神田 桂一【AM5周年記念】

 今回は、AM5周年を記念して、村上春樹文体模写で、神田 桂一さんに恋愛について書いていただきました。ぜひ、お楽しみください!

村上春樹 文体模写 小説 Unsplash

永遠に来ない電車、焦げたケチャップ。
あるいは古ぼけたラジオカセットについて。

 電車は来ない。あるいはそれは、もう永遠に来ないのかもしれなかった。月にうまく着地できなかった宇宙飛行士のように。しかたなく僕は携帯を取り出し、緑に1024回目の電話をした。今、僕は高円寺駅のホームにいます。僕はまるで無人島に一匹だけ残された不器用な猿のようですと、僕は緑に言った。不思議な沈黙が流れた。待ち合わせ時間に遅れていることを、まるで、逮捕直前の政治家の答弁のように遠回しに、ゆっくりと指摘された。僕は、あなたが過ぎていると思えば過ぎているだろうし、過ぎていないと思えば過ぎていない。それを判断するのは僕ではないし、ましてや、カーネルサンダースでもない。そう述べるしかなかった。
 完璧な男などと言ったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないように。いつの時代も男女関係とは理不尽なものである。アイロンがけしていないワイシャツに誓ってもいい。緑と対話するには、あるひとつの方針を念頭にかかげなければならない。それは理解は誤解の総体だということだ。緑は僕を理解したという。でも決して理解してはいない。それは僕が緑と付き合って3年経って出した答えだった。それに対抗するには、緑をうなぎと思うことにすることだ。これでたいていのことは解決する。うなぎが何をしようが、大抵のことは許せる気がするからだ。
 やがて電車が来て、ゆっくりと僕を新宿に連れて行った。待ち合わせ時間には1時間遅れていた。僕は、シンジュクと声に出して言ってみた。だけど状況は何も変わらなかった。時計の針は相変わらず、待ち合わせ時間より1時間遅れの時刻を指していた。やれやれ。待ち合わせ場所の新宿紀伊國屋書店の前に行くと、緑は、まるで自分の意志に反して即身仏になってしまった僧侶のような面持ちで、こちらを睨みつけていた。その目にははっきりと、憎しみが見て取れた。ナポリタンを作ったあとにフライパンにこびりつく、焦げたケチャップソースのように。僕は声をかけてみた。当然無言だ。僕は待ち合わせに遅れたことを謝ったあと、近くのバーに緑を連れて行った。

 ビールをふたつ頼んだあと、僕はおもむろにオムレツを注文した。いいバーはたいていおいしいオムレツを出すものなんだと僕は言った。珍しく緑が先に食べた。するとそのまま全部平らげてしまった。たぶん5分もかかっていない。店内にはロッシーニの泥棒かささぎが流れ、まさにカラヤンは、その曲を楽曲的ピークに持ち上げようとしていた。緑は何か言いたいことがあるらしいことが態度からうかがえた。ずっとそわそわしているのだ。僕は思い切って聞いてみた。何かいいたいことがあるのなら、言ってほしい、と。緑は静かにこういった。
「あなたって面白い人ね」
「あなたって面白い人ね」僕はその言葉をゆっくりと繰り返した。よくわからないな。それはとても邪悪で、これまでに聞いたこともない声色だった。とりあえずオムレツの皿を下げてもらおうと思ったが、その邪悪性によって、店員に声が届くことはなかった。
 でも僕は緑と付き合ってよかったと思っていた。いつもそうなのだ。僕が何をやっても緑は僕を引っ掻き回して勝手に自己完結してもう次のステージに移ってしまっている。僕は置き去りだ。でもそれが僕には心地が良かった。まるで時代に取り残されたラジオカセットのように、僕は緑の前では、何者でもなかった。ふと緑の顔を見ようと自分の顔をあげると、緑には顔がなかった。店内には、ビーチボーイズの『GOD ONLY KNOWS』が流れ始めた。ラジオカセットになった僕は、静かに自分の電源を切った。パチン…OFF。

Text/神田 桂一

神田 桂一(ライター/文体模写研究家)
『ポパイ』『ケトル』『スペクテイター』『トランジット』 などで執筆。好きな国は台湾。