ストーリーよりも音楽的なセックスを
「歌が終わるまでは、酒を飲んでいてください」と通訳者が私に耳打ちをする。「ゆっくりでいいから、飲み続けて。歌が終わる前に飲み干すと、また酒が注がれてしまいますから」。このあたりでは一番高級で大きな個室をそなえたレストラン。商談後の私たちはこの異国の地特有のおもてなしを受けていた。派手な民族衣装をまとった女性たちがなめらかに歌いながら私の杯に酒を注ぐ。体内に強いアルコールが染みわたっていく。
私の番が終わると、今度は隣の席の男の杯に酒が注がれた。彼はすぐに飲み干して、またなみなみと注がれていた。こういう場では、「飲みっぷりのよさ」が男性としての序列に直結したりする。くだらないことだ。でも意外とそういうの気にする男なのかしら。そう思うと元々知り合いだった彼がやけに可愛く見えてくる。
もう目の前の羊肉を食べる気になれず、ぼんやりと歌声を聞いていたのだが、しばらくしてサーっと血の気が引くような感じがして、店の屋外トイレに駆け込んだ。なんとか間に合い、晴れ晴れとトイレから出ると、隣の席の男が私を待っていた。「大丈夫?」と聞かれ、「そちらこそ」と笑う。ちょっと水をもらいにいこうかと歩いているうちに、店の裏の人気のない場所に出て、キスをされた。
夏のかわいた空気の中で、唾液のぬめりがやけにおいしい。最初はきついアルコールや獣肉、そしてまだ親密ではない人間のからだの匂いがしたが、そんなことも次第に感じなくなっていった。膣のおうとつのひとつひとつが際立ち、スウスウする。なかなかさわってくれなくてもどかしいから、自分でワンピースのファスナーを少しおろしてしまう。
小さな木のベンチに寝かされ、彼が入ってくる。「さっきからずっとヤりたかった」。ああ、「ずっと好きだった」なんて言われるよりもずっといいかもなあ、と思ったのを覚えている。丁寧に心身を愛されるよりも、ただ今夜この場でヤりたい女でいたいこともある。
『村上龍映画小説集』の「ブルー・ベルベット」という短編に、「演劇的セックス」と「音楽的セックス」の話がある。以前寝た男は結婚していたから、セックスひとつにもいろいろなストーリーがあって演劇的だったけれど、あなたとのそれは違って、ずいぶん音楽的だ、というようなことを彼女が言う。
「ストーリーがなくて、抽象的だからといって、誰でもいいってわけじゃない、あんたの顔や声や話すことやその十八歳のからだなんかとても大切なの、特別なのよ、わかる?」
(『村上龍映画小説集』収録「ブルー・ベルベット」村上龍著,講談社文庫,1998年,107~108頁)
たとえば長く慕っていた人との初めての接触とか、憧れていた上司との不倫とか、そういうストーリーの大河に酔いしれる、演劇的なセックスもたしかに気持ちいいのだけれど、ストーリーがなくてもただその場の空気やその人のからだに惹かれてノリで求めあうような、音楽的なセックスもまた気持ちがいいものだ。あの夜の野外セックスは私にとって音楽のようだった。お互い誰でもいいようで、誰でもいいってわけではない。
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