「生まれ持ったもの」と「教え込まれたもの」
わたしは母親から「セックスは好きな人とするもの、だから、本当に好きな人が出来るまで取っておきなさい」という教えを刷り込まれていました。
そして、その通り、「本当に好きな人」ではなかったから、処女は守った。
したのはフェラチオだから、罪悪感や後悔を感じなかった……なんてことを書くと、「なんでそこを切り分けたのかわからない」「フェラチオをしておいて、純潔は守った気になってるのって、違くないか?」という自問も湧いてきます。
けれど、いくら考えてもフェラチオはキスの延長で、セックスとは別物なのです。
『性癖』というものは、持って生まれた傾向と、成長する過程で育まれたものの両方が複雑に作用して、形作られるものだと思います。
その形は人に寄って様々ですが、残念なことに、「自分の性癖が正しい」と思う人々には、自分とは違った形を持っている人の性癖が、時にいびつに見えてしまうこともあるようです。
自らの性に対して開き直れないでいると、「あなたの性癖はいびつだ」と言われる度に、恥じたり、悩んだりすることになる。けれども、わたしの性癖は他人からどのようにいびつに見えたとしても、わたしにとっては、正しい形なのです。
そのいびつを他人に認めてもらおうと思うのもまた、傲慢な話ですが、しかし、誰にも迷惑をかけずに上手にあやせる限りは、見ないふりとしたり、矯正する必要がないのではないのではないかと思うのです。
その一年後、母の教えに従い「好きな人」と処女喪失をして以来、わたしは「性的に奔放なタイプだ」と自覚することになるのですが、その本来の奔放な性質と、成長する過程に掛けたれた「純潔を守れ」という鎖、このふたつのちょうど折り合い点がフェラチオであったのではないかと、いうのが今になっての結論です。
…次回は《カリスマ女子高生ブームの頃…初体験後にはじけた性への好奇心》をお届けします。
Text/大泉りか
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