彼に嫉妬されると興奮する。でも「嫉妬」で愛を確認しない世界は清々しい

若い頃、恋愛で苦しかったことを振り返ってみると、そのひとつとして「相手の嫉妬」があったように思います。若い頃のわたしは、嫉妬心が強く行動を束縛するタイプの人と付き合うことが多くあった。

だからといって、わたしも同じように相手を束縛することを希望するかというと、それはまた別の話です。例えば、夜の20時以降は家にいることをわたしに望んでいたかつての恋人が「二週間くらいニュージーランドにスノボーしに行こうって友達に誘われたんだけど、行ってもいい?」とお伺いをたててきたときは「なぜわたしの了承を取ろうとするのか。勝手にすればいいのに」と不思議に思ったし、もうちょっと酷い話になると、ライターの男性と同棲中、「取材で仙台まで街娼の老女を買いに行かなくてはいけなくて。そういうの、嫌だよね?」と相談を受けたときは「面白いから行ってきてくれ」と全力で送り出しました。取材を終えて帰宅後、すっかり打ちひしがれている恋人から「量産型ザクみたいな体型の婆さんで、『これ食べな』って手作りのおにぎりをくれて……」などと取材の成果を嬉々としてヒアリングした記憶もある。面白いネタを取ってきてくれる彼氏って、サイコー!

おそらくわたしは嫉妬されるのが好き

というふうに、二人の関係で浮気や二股はなしにしたいけれども、それ以外の遊びや仕事、自分を磨くための行動であれば“恋人”という存在を足枷にする必要なんてない、というのがわたしの基本的な考え方なのです。なのに、同性の友人と遊んだりするだけでも、嫉妬して束縛する人を選り好みして付き合っていたのは、おそらくのことわたしは、嫉妬されるのが好き――もっと詳しく言うと、相手が嫉妬に怒っていたり、苦しんでいたりする姿を見ると、興奮を覚える性質だったからです。

ゆえに、セクシャルな仕事に就いていたことは、わたしにとってはある意味で、非常に都合のいいことでした。例えば「合コンに行くな」「異性とふたりで食事をするな」ならば、確かにそれは“浮気”と取られても仕方ないと考えて行動を慎んだり、どうして行きたい場合はこっそりと黙っていくという手段を取りますが、「ハプニングバーに取材で潜入する」「イベントに呼ばれてステージの上で脱ぐ」といった“仕事”ならば、相手に悪びれることは何ひとつない。「仕事でしていることに、嫉妬しないでいただけます?」と開き直った態度を堂々取れる。結果、相手は嫉妬に搔き乱される心をどうすることもできなく藻掻き苦しみ、その姿を見てわたしは心の中でほくそ笑む……という駆け引きを楽しんでいたのです。