「無知と傲慢の混ぜ合わせ」が広がっていた――ツイッターで失言が生まれる原因を考える

by Priscilla Du Preez

「ツイッターでは口悪いけど、実際に会うといい人だよ」なんて言葉を信じる人は、もはやいなくなったように思う。その人の本質は日頃ダダ漏れさせている思考にこそ表われるのだと、多くの人は実感し始めたからである。よって、私もこの説を超推したいのだが、「会ったらけっこういい人だったなァ」とオフ会の帰りなどにほわほわした経験が少なからずある身としては、この説を推すと自分の人を見る目のなさが露呈してしまうので、毎度「むぐぐ!」となるのだった。

まあそれはいいとして、こうした「実際に会うとけっこういい人だった現象」ってそもそもなぜ起きる(起きていた)のだろうか。目の前の相手にだけなら、人間はいくらでも本質を隠せるし、取り繕えるから? 今回は、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『なにかが首のまわりに』を読みながら、これを考えてみたい。

どこで英語おぼえたの? 車を見たことある?

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは、ナイジェリア出身の女性作家だ。19歳で奨学金を得てアメリカに留学し、その後修士号を取得している。いずれはノーベル賞かとの呼び声も高いそうだが、『なにかが首のまわりに』は、そんなアディーチェの12の小説が収められた短編集である。

12の短編のなかのひとつである表題作『なにかが首のまわりに』は、ナイジェリアからアメリカに渡った黒人女性の主人公に、白人のボーイフレンドができる物語だ。黒人女性と、白人男性の恋愛ーーこの短編では物語が進むにつれ、主人公の目線から人種に対するさまざまな偏見が暴かれていく。

たとえば主人公は、おじさんが入学手続きをしてくれたコミュニティカレッジに通う。そこで同級生の女の子たちに「どこで英語おぼえたの?」「アメリカに来るまでに、車を見たことはあった?」なんて質問をされる。だけど同級生たちの質問に答えるならば、ナイジェリアの公用語は英語だし、主人公の父親は建設会社の運転手助手だ。失礼な質問だが、同級生たちにも悪意があるわけではない。主人公は質問に、ただ微笑むだけ。

さらに、主人公とボーイフレンドのカップルを見た白人男女は、いかにも明るく「すてきなペアだこと」なんていう。それはまるで、自分の偏見のなさを自分自身に納得させようとしているみたいに見える。

主人公に対して偏見を振りまくのは、いわゆる「エリート」や「リベラル」と呼ばれる人たちも含まれている。あからさまな差別や迫害はそこにはない。だけどナイジェリアから来た主人公の眼前には、彼女のおじさんが批判したように、まさしく「無知と傲慢の混ぜ合わせ」が広がっていたのだ。