「さみしい」という便利な言葉の奥にあるもの

 つい先日、友人がこんなことを言っていた。

「僕は“かわいい”という言葉を極力使わないようにしてる。行き場のない軽い性的な興奮を“かわいい”というと、それ以外に表現できなくなるから」

 これには唸らされた。
猫も赤ちゃんも老人も、総じて「かわいい」存在は「かわいい」。そしてこの「かわいい」という言葉があまりにも便利過ぎるので、その奥にあるべき自分にとっての意味を、個別に定義することを怠けてしまっている。そんな真実は確かにある。

 これと同じことが「さみしい」にも言える。
何しろ社会にはいまだに、成人はツガイになってしかるべき、といった考え方がしぶとく残っている。
恋愛したり、結婚したり、子供を生んだりするのが当然という無言の圧力もある。
そんな中、おひとりさまであることはそれだけで、何かが不足している、不完全な自分を作る動機になる。
そしてあらゆる物足りなさは、大体「さみしい」で表現できてしまうのだ。

 だけどざっくりと「さみしい」と表現したその気持ちの正体は、本当は「人肌恋しい、セックスしたい」なのかもしれない。
あるいは「毎日が退屈でつまらない」かもしれない。恋人がいたり、結婚したりしている女性と自分を比べて、つい本来不要な劣等意識を持ってしまっているのかもしれない。幸せそうなあの子への嫉妬かもしれない。
もしくは、案外仕事のストレスが思わぬ形で影を落としているだけかもしれない。

 本音って大体グロテスクで、エゴイスティックで、自分ですら向き合うのを避けたくなるようなものだ。
だけど、一度わかってしまえば、案外、なんだ、そんなことだったのか、と理性や論理で片が付くことはよくある。

 もし生理前でもないのにただ無性にさみしいと感じるとき。本当は、その言葉のもっと奥にある何かが、“ここをケアしてほしい”と、しきりにSOSのサインを出している。
一見綺麗なベールの内側にある本音と覚悟を持って向き合うことで、そのときの自分に必要なものが、見えてくるのだろうと思うのだ。

Text/紫原明子

※2016年12月1日に「SOLO」で掲載しました