何もしないように見えることは、寛大な優しさの証
そもそも私はかなり思い込みの激しいタイプで、何かひとつでも駄目だと思うとすべて自分のせいであると感じてしまう。自分のミスも当然だが、先方都合でトラブルが生じた案件も自分のせいなんじゃないか、と頭のなかでぐるぐると考え込んでしまうこともよくある。冷静に振り返れば、まったく自分のせいではないのに。
何も言われていないけれど、本当は怒っているのでは? 実は、この発言の裏にはこんなことが隠されているのでは?……無駄に勘ぐり始めると、止まらなくなる。不安だ。長いこと働き続けてきて信頼関係もそれなりに出来上がっているし、ある程度の人間性も理解しているはずなのに、内心は違うことを考えているのではないか? 迷惑をかけているのなら辞めたほうがいいのでは? 私がいなくても全然仕事は回るし、限界が来たら辞めるか? 被害妄想は止まらない。
結局、私の思い過ごしで、なんてことはないことが積み重なっただけだった。上司に間に入ってもらったり、同僚とランチに行って話をしていると、クヨクヨウジウジ悩んでいた過去の自分がバカみたいに思えてくる。今までと同じように、ちゃんと自分の仕事に責任と自信を持って取り組めばいい。今はそう感じている。
自分のしていることに対して、理由もなく自信がなくなってしまうことは普通に生きていると何度かあって、その度に私は人に助けられている気がする。私はひとりが好きで、居心地のよさを覚える。ちゃんと自立して生きていけたらいい。けれど、いつも私を肯定してくれ自信を与えてくれるのは周囲にいる人たちだ。ひとりでいる私を認めてくれるのも、私という不完全な存在を受け入れてくれるのも、私のすぐそばにいる友達や知り合い、会社の人のおかげなのだと思う。人に否定されない、黙って見守ってくれる、自分の欠点を認めてくれるというのは、何もしていないように見えるが寛大な優しさの証だ。私はそのたくさんの優しさに触れているからこそ、ひとりでいられるのだろう。
自信を失い、誰かに助けてもらう度に、私はどれだけひとりで生きていきたいと思っても、社会性を持つ集団のなかでなければ生きられない人間なんだな、というのを実感している。
Text/あたそ
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