許せないから苦しい。音楽作品の価値、アーティストの人格とともに自問自答する

どんなに好きな楽曲でも、許せない自分がいる

by Maxime Bhm

7/18現在、小山田圭吾氏が大炎上している。もはや説明する必要もなさそうだが、つい先日、彼が東京オリンピック・パラリンピックの楽曲担当になったことがきっかけだった。

小山田氏は22、23年ほど前、2つの雑誌で障害のある同級生への悪質ないじめを自慢げに、まったく悪びれることなく話している。いじめにも色々な種類があるが、犯罪に近いというか。当時の時代背景と若さから黙認されてしまっただけであって、個人的には犯罪行為そのものだと認識している。人の人権を踏みにじるような、悪質で最低なことを彼は過去に行っていた。

いじめ自体ももちろん問題ではあるのだが、私は今回の楽曲提供のオファーを受けたことに問題があるように思う。ちょっと不気味にすら感じる。

この件はファンの間だけではなく、音楽が好きでなんとなく小山田氏の音楽を聴いたことがある人であれば知っている、有名な話である。たしかWikipediaにも掲載されているし、ググると「いじめ」といった単語でもサジェストされる。オファーをする側も、オファーの時点で知らないのは問題じゃない。でも、担当者の誰かが少しでも氏に興味を持って、相応しい人物であるか調べようと思えば簡単に辿りつける情報である。ものの数分あれば、彼が不適切であると判断ができるだろう。さらに、小山田氏も小山田氏で、このオファーを受けてしまった。パラリンピックがどんな大会なのかは当然理解していたはずで、自分の過去に後悔し、少しでも後ろめたい気持ちがあるならば、このオファーは受けなかったのではないだろうか。

人や組織には色々な事情があるし、オリンピックの裏側でどんなことが起きているか私はよく知らない。もしかしたらオファーを受けざるをえない事情が何かあったのかもしれない。けれど、引き受ければ騒ぎになるのは目に見えていたはずだ。オファーを受けたということは、このいじめに対する重大さをわかっていない、反省していないということなんじゃないか。周りから、そう捉えられても仕方ないのではないか。

「作品とアーティストの人格は別物だ」という考え方がある。そして議論になる度に、私は小山田氏のことを思い出していた。彼の音楽を聴く度に、自分の価値観や評価が揺らいでいた。私は、小山田氏の作る音楽が好きだ。フリッパーズ・ギターもコーネリアスもMETA FIVEも。いや、本心で言えば「好き」と言い切ってしまうのも、少しはばかられる。

このいじめの一件があったから、私は彼に対してお金を払っていない。サブスクで聴くとか、フェスやイベントでたまたま見かけるとか、間接的な支払いは何度かあったかもしれないが、自分の感覚として、小山田氏に価値を見出し、その対価を積極的に支払う行為をしたことがない。それは、彼の作る音楽がどれだけ素晴らしかったとしても、このいじめの行為がどうしても自分のなかで消化しきれず、許せないからだ。