性交の最終目的地は“「ここではないどこか」を現実化した状態”
―結局、それは本質的な恋愛関係に結びついていかないということでしょうか。
宮台:ナンパというと聞こえが悪いけど、〈超越系〉のナンパつまり〈瞬間恋愛〉は、現実の恋愛をベースにした想像的(imaginary=虚数的)な見立てです。実は、現実の恋愛も想像的な見立てなしには成り立たない。恋愛とナンパは繋がるのです。
現実には性交可能なパートナーは日本国内に限っても何千万人もいます。
何千万人ないし何億人からたった一人を選んで「唯一の」存在として見立てるのが、18世紀末に始まるロマン主義的な恋愛です。
属性ないし述語的には「そんな女」はいくらでもいるでしょう。この女は可愛い、肉感的だ、優しい…そんな女はいくらでもいます。男も然り。
それが現実(real=実数的)です。でも、そこに決断主義的に「唯一性」を見立てるのが、恋愛です。
その意味で、ロマン主義的な恋愛は、実部(real)と虚部(imaginary)から構成される複素数(complex)です。
その意味で〈瞬間恋愛〉は、実はロマン主義的な恋愛の作法を、いわば圧縮的に実現したものだと言えるでしょう。
これは謂わば現実の変性(alteration)です。現実の変性をもたらすものが変性意識(altered state)。
物理的現実を変性したものだという意味では全ての意識が変性意識ですが、標準的意識からの逸脱度をベースに所謂〈変性意識〉を定義できます。
その意味で〈変性意識〉はトランス状態を含んでいます。ランニング・ハイやドラッグ・ハイの状態も〈変性意識〉です。
普段は敏感なものに鈍感になり、普段は鈍感なものに敏感になった、謂わば繭の中に入ったような状態です。
ハイデガー哲学の中核概念はエクスタシス(脱自)です。自分の外に流れ出るという意味で、「ここではないどこか」に向かう志向です。
実は、性愛でいうエクスタシーとも同根です。不可能なはずの「ここではないどこか」を現実化した状態です。
たとえ一瞬のことではあれ、自分の輪郭を失い、世界ないし相手と融け合って、どれが自分でどれが相手かも分からなくなる〈輝きに満ちた眩暈〉の状態です。これはもちろん〈変性意識〉に入った状態です。
シュノーケリングの軽装備であっても、海に潜っていると、10分経ったなと思うと30分経っていて、30分経ったなと思うと2時間経っています。
ある種のウラシマ効果ですが、時間感覚の著しい変容は、〈変性意識〉に入ったことのあらわれです。
性交での〈変性意識〉の度合いも、時間感覚の変容でおしはかることができます。
性交のエクスタシーが強力であるほど時間感覚が変容して、場合によっては海に潜っているときよりもずっと大きく時間感覚が変容してしまいます。
こうしたエクスタシス(脱自)的な〈変性意識〉の状態が、望ましい性愛の如何を測るバロメータだとすると、ナンパ実況は明らかにエクスタシスの反対物です。そんな俗事にかまけるエネルギーがあったら、別のものを追求しろという話です。