前々回、史上最も新しいタイプの新ファーストレディが誕生したことについて書きましたが、それに伴いフランスでは史上初の男女同数の内閣が誕生しました。
女性政治家に対する期待値
任命されたエロ―首相は、以前より7名増えた34名からなる内閣の男女比を17:17としたと発表。
日本では「え、エロ首相? ププッ」とか、「どうやらアラブ圏でも首相の名前は卑猥な言葉らしいよ。ププッ」などと、別のポイントで盛り上がっていますが、一番の話題とすべきはこの男女比率。男女比を同じくしたのは、積極的男女格差是正措置だと思われます。
以前より、国会での男女比は問題にされてきました。無理矢理男女の比率を同数にするのは、不自然であり、「逆差別」であるとも取れるからです。
実際、以前から「女性」という武器を持って政治家になった人たちに問題があったのも確か。
ミッテラン時代の史上初の女性首相エディット・クレッソンは、偏執的なタカ派で「日本人は蟻。殺しても湧いて出てくる」と発言したことで有名。
イギリスではサッチャー首相がいい例ですが、強固な保守派の急先鋒として出没し、彼女の功は認めるが、お蔭でイギリスは大打撃を被ったと、未だに恨みに思っている人がいるくらい。
「女性だから」という理由で起用されるとロクなことがないと、構える人が多いようですが、まあ男の政治家なんて無意識のうちに「男性だから」というわけのわからない信頼からそもそも選ばれてるのだから、一緒じゃないかと思うのです。
そういう話は放っておいて、この男女同数内閣が評価できるのは、少なくとも「形」を男女同等にすることで、得られるものが確実にあるからです。 それは、女性への期待。
10年ほど前に「Parité(平等)法」が実施されて、あらゆる面で数的に平等を確保するように舵を切ったわけですが、それが今やっと閣僚に及んだ形です。 何故、意図的に平等にする必要があるのか。
それは、未来の女性たちを考えているからです。
今はまだ、少年少女である次世代に、「チャンスは平等に広がっている」と教えるためです。
日本のように内閣に1人しか女性がいない姿を見せれば、子どもたちは自動的に「政治は男の世界」と学んでいくでしょう。
それは一種の“洗脳”に近いです。
経団連の会議(? 総会?)にずらっと男性しか並んでいないことを知れば、社長になりたいと望む少女は途中で、「女性である自分はふさわしくない」と思う(よほど男性社会に立ち向かう勇気があれば別ですが)でしょう。
それは少女たちに、政治家に企業のトップに、もしくはもっと自由に職業を選択すること自体を制限する行為。
少なくとも、少女たちに「あなたたちにも、政治家になって欲しいと期待している」というメッセージを送ることにはなります。
日本人女性は「内助の功」&「影のフィクサー」が好き
日本の内閣の女性比率は他のOECD諸国と比べても下位。2011年の菅内閣でも11.3%で、186ヶ国中121位。
朝日新聞のニュースによると、求人広告会社が1439社にアンケートしたところ、「女性が子供を産んだら退職してほしい」という、仕事を続けたい女性に対しての否定的な意見が25%だったとか。企業の女性取締役比率も2011年で42ヶ国中1.4%の38位。日本より下位はすべてアラブ諸国だという惨い結果。
これは日本人特有の「役割」重視の考え方に起因していると思っています。
これだけ就業女性の数は年々増え続け、企業内に女性の声が響かないわけがないのに、相変わらずいまだにこんな回答結果が出る状況。「女性は子育てに専念するべきだ」と、企業も、男性も、実は企業内の女性すらそう信じている。そう思えてなりません。
自分が何にふさわしいのか考える場合、日本人の多くは「自分がしたい」ではなく「こうあるべきだとされている」を優先。
そもそも言語に「私=I」が欠落しているので、仕方ないことなのかもしれませんが、女性自身が、自分がこうしたいと思っていることよりも、女性として“ふさわしいとされていること”に近づいて行ってしまう傾向があります。
前世代の考え方を、こうして踏襲してしまうのが日本女性の特徴。
もちろん、それは悪いことばかりではありません。
が、少なくとも、これから多様性を求める社会に向かって行くのであれば、それは改善しなければならないと思います。
しかし、踏襲することがお好きな政治の世界では、女性が表だって活躍するとかならず、踏襲好きな方々(国民含む)からバッシングを受けます。
なので、それを上手く避けるため、実力のある女性政治家は「影のフィクサー」、男性政治家を陰から支える「内助の功」として活躍することが多いです。
それはそれで正しすぎる女性としての選択ですが、それでは次の世代のためにはなりません。
「形」が人を変える
「同数にしたって、政治家を目指す女性が増えるとは限らない」という批判もあるでしょう。
「ピグマリオン効果」という言葉は有名だと思います。
「ローゼンタール効果」とも言われ、期待された人間は学習効果が向上するというものです。
バナード・ショーが同名タイトルで書いた戯曲「ピグマリオン」を映画化したのが、オードリー・ヘプバーン主演の『マイ・フェア・レディ』です。
どうしようもない田舎娘を、学者がレディとして扱うことで見事に本物のレディになっていく物語。
「レディと花売り娘との差は、どう振る舞うかにあるのではありません。どう扱われるかにあるのです。私は、貴方にとってずっと花売り娘でした。なぜなら、貴方は私をずっと花売り娘として扱ってきたからです」
このセリフは期待される形に、人間は沿っていこうとする姿を表したセリフとして古今東西有名になっています。
この心理学の証明に関しては、いろいろ議論はあるものの、少女たちに「将来は君たちに期待しているよ」と表現できる内閣か、「君たちは針の穴にラクダを通すくらいの勢いじゃないと政治家にはなれないよ」と、無言の圧力をかける内閣か。
私は断然、前者のほうが未来は明るいと思います。
Text/Keiichi Koyama