女子力とは「いかに他人の役に立つか」?

「女子力」という言葉が日常のどういう場面で使われているか、あらためてツイッターで検索してみた。するとだいたい、料理の腕・美容意識の高さ・気遣い力という3つに分類されることがわかった。簡単に言うと、飯炊きがうまく、見た目が良く、気の利いた女は「女子力が高い」ということになる。
つまり「女子力の高さ」とは、いかに他人の役に立つか、ということを測る指標で、“女子”力というからには、ここで役立ちたい他人というのは大抵の場合男性で、だからこそ余計にタチが悪かったと私は思う。何しろ、恋人や夫の人生に貢献する―誰かの役に立つ―というのは、一般的には善い行いとされているので、“これだけやってあげたのに”という不平等感が一方的に発生しやすい。
口に出しにくい分じわじわと鬱積して、いずれは時限爆弾のように時間差で大爆発してしまったり、またそうでなくとも、相手をじわじわと絡め取る、まがまがしいエネルギーの発生装置となってしまうのだ。

こういった“献身”が秘めるリスクを巧みに描いていたのが、2011年に公開された映画『モテキ』だ。あらすじを簡単に言うと、冴えない主人公幸世(森山未來)が人生で二度目のモテ期を迎えわちゃわちゃするという話。
幸世は、対面する女性の仕事や性格によって露骨に態度を変える差別的な人間で、今あらためて映画を見直すと本当にひどいやつだなとつくづく思うが、今はひとまずそれについてはおいておいて、モテ期を迎えた幸世の前に現れる、みゆきとるみ子という、二人の女性について考えたい。

すでにWikipediaにも載っているので容赦なくネタバレさせてもらうと、みゆきも、るみ子も、どちらも幸世と一夜をともにする(セックスするかしないかは別として)のだが、問題はその翌朝の行動だ。みゆきは「この辺にスタバある? あとでコーヒー買いに行こう」と幸世に切り出す。一方るみ子はというと、率先して朝食を作ろうとする。さらに、そんな自分の行動を幸世が快く思っていないことを秒で察し、自分は何ひとつ悪くないというのに先回りして、「ごめん」と謝りさえするのだ。

長澤まさみという人間があまりにも可愛すぎるのでつい見誤るけれども、作中のみゆきはショートカットで、趣味はサブカルで、いつもパンツスタイル。おまけに有名イケメンクリエイターと絶賛不倫中で、幸世は単なる遊び相手だ。一方、朝ごはんを作ろうとするるみ子はボブヘアで、ファッションの思考も比較的フェミニン、他人の気持ちを慮る。一般的な「女子力」の尺度で測ればるみ子の勝ちで間違いない。それなのに結局幸世が追いかけるのはあくまでもみゆきの方で、るみ子からは逃げ出してしまうのだ。

セックスの前に、幸世とるみ子が二人でカラオケに行くシーン。この時のるみ子は、B’zの楽曲を全身全霊で歌い上げている。このことから、彼女の内には熱く燃えたぎるエネルギーがひしめいていること、そんなエネルギーを長らく蓄えておけるだけの巨大な器が備わっていることが伺える。だからこそ、初めてセックスをした翌朝、幸世のために粛々と朝食を作ろうとする、るみ子のあの献身的な姿には何とも言えない落ち着かなさ……ある種の恐怖を、感じてしまうのだ。
幸世は「なんか重いんだよ」と言う。自分の軽薄さを棚に上げた最低なセリフだが、気持ちが全くわからないでもない。もともと持っている熱いエネルギーをひた隠し、献身的な存在として求める以上に与えられ、そうこうするうちに、いつしかズブズブに沼の底に沈められて、ねっとりと絡め取られてしまうんじゃないか。幸世に肩入れして観ているわけでもないのに、るみ子にはついこちらまで、そんな恐しさを感じてしまうのだ。

だからこそ、私が幸世だったとしても、るみ子に一方的な献身でずるずると非対称な関係に持ち込まれるより、みゆきとスタバに行って、お金を払ってイーブンな関係でいるほうがよほど精神衛生に良さそうだと感じる。

2011年の映画でこうなのだから、実はもう私達はとっくの昔に、女子力のやばさに気付いている。もっといえば、「女子力」という諸刃の剣は、自分を犠牲にして振り下ろしたところですでに敵に見切られているのだ。

だとすれば今、私たちが誰かと出会い、愛し合うために、一体何が必要なのか。