恋愛という「魔法」を心から信じることができたバブル期
『東京ラブストーリー』の劇中に、カンチとリカのこんなやりとりがあります。
リカ「ヒマラヤのてっぺんから電話したら、迎えに来てくれる?」
カンチ「迎えに行く!」
リカ「あったかいおでん持ってきてくれる?」
カンチ「屋台ごと持ってく!」
リカ「ビートルズのコンサートうちで開きたいって言ったら?」
カンチ「連れてくる!」
リカ「ジョンはどうするの?」
カンチ「俺が代わりに歌う!」
リカ「魔法を使って、この空に虹かけてって言ったら?」
カンチ「それはできないかもしんないけど……でも、魔法だったら使える!」
トレンディドラマを象徴するような歯の浮くかけ合いですが、ポイントは「虹はかけられないけど、魔法は使える」というカンチのセリフです。
「魔法」とは、現実には存在しないけれど、それを信じる人や世界観の中では、たしかに効力を発揮するもの。
これって、「恋愛」の比喩そのものだと思いませんか?
大事なのは、本当に「虹をかけられる」かどうかではなくて、「魔法は使える!」と言ってくれる人がいることです。
トレンディドラマが流行した80年代後半~90年代前半は、日本人全体がバブルに浮かれ、享楽的なムードに支配されていた時代。
一方で、すべてのものが消費の対象となってしまうことで、人々は確固たるもの、絶対的なものを失うむなしさも感じていました。
中には、オウム真理教のような宗教(≒魔法)にそれを求めてしまう人も…。
そんな中で、若い女性たちは「恋愛」こそが、自分に確固たるもの、絶対的なものを与えてくれる「魔法」だと信じたのではないでしょうか。
彼女たちだって、トレンディドラマのようにうわついたセリフが飛び交う、非現実的な生活を、本気で実践できるとは思っていなかったかもしれません。 でも、男に媚びずに好きなときは「好き!」とハッキリ言う赤名リカのような生き方は、少なくとも信じる価値のある「魔法」だった。
だから、トレンディドラマはあれだけ多くの女性に、絶大な支持をもって受け入れられたのでしょう。
魔法にかかりにくい現代、それでもドラマにできることは?
そう考えると、私たちはいつの間にかテレビドラマというものに、すっかり「魔法」を感じなくなってしまいました。
ドラマの感想といえば、「あんなとこに虹かけようとしてるよ(笑)」「そんなふうに虹かかるわけないじゃん!」といったツッコミばかり。
これでは、魔法の効力がいちばん必要とされる「恋愛ドラマ」を、純粋に楽しめるはずがありません。
その根底には、わざとらしいフィクション(≒魔法)に対する不信感・拒絶感があるのかもしれません。
かろうじて視聴率をとれるジャンルも、刑事ドラマや医療ドラマなど、“できごと”の連続で成立する、“リアリティ”重視のものに限られています。
でも、こんな時代だからこそ、「魔法」を「魔法」と割り切ったうえで楽しむ見方があってもいいんじゃないでしょうか?
先に挙げたカンチとリカのやりとりは、他愛のないムダ話です。
ヒマラヤに行ったら…とか、ビートルズが聞きたい…とか、話している内容そのものはどうでもいい。
でも、そんなくだらないやりとりをいつまでも続けていたいという、2人の“気持ちの動き”を想像することに、このドラマの本当の味わいがあるわけです。
『東京ラブストーリー』の脚本家・坂元裕二さんが書いた2011年のドラマ『それでも、生きていく』は、テレビドラマの「魔法」を視聴者にもう一度信じてほしいという思いが伝わる傑作ドラマでした。
恋愛ドラマではありませんし、「少年犯罪の加害者家族と被害者家族の交流」というシリアスなテーマを描いたストーリーは、設定も非現実的でかんたんには感情移入できません。
でも、そこには“何が起きているか”というできごとの羅列ではなく、“そのとき、どう気持ちが動いているか”という想像力をかき立ててくれる、素敵な会話がたくさん出てきます。
加害者家族の娘と、被害者家族の息子が、少しずつ心を通わせていく(あるいは通わせない)過程は、「トレンディドラマ」や「ラブストーリー」が成立しなくなった今、新たなフィクションの魔法を提供してくれる、極上の「恋愛ドラマ」にもなっていると思います。
機会があれば、ぜひ見てみてくださいね。
Text/Fukusuke Fukuda
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