こんにちは。
今日もトキメキながら更新いたします。
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今回は、前回の記事のつづきです。
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私たちは、つい、
「今、目の前のこれを、思ったとおりに、うまくいかせたい。
そうすれば、自分は楽になれる、安心できる、幸せになれる」
と、現状をなんとかすることを焦ってしまいます。
気持ちは、よくわかりますよね。
私は以前から、ラジオの人生相談を聴くのが趣味で、
100件以上は聴いています。
最初にまず、年齢、家族構成からはじまり、
起こった問題やその背景について、
5W1H(What、Who、Where、When、Why、How)で
徹底的に事実を集めます。
さらに回答者からいろいろな角度での質問をし、
専門家としての正確な知識と、
人生経験豊富な大人としての、客観性や知性や理性や洞察を併せた
回答者それぞれの力量で、
「正確な現実認識」をしていくわけです。
(個人的には、「うーん、そうかなあ・・・?」と思うこともありますが。笑)
そのあとで、どんなご相談でも、
回答者のお返事は、
「では、明日からこうしてください。以上」
ではありません。
それだけを言われても、相談者は
「え?なんでそんなことをしないといけないの?」
となってしまいますよね。
「では、明日からこうしてください。以上」
ではなく、実際は、
「あなたは、相手はこう思っていると主張していらっしゃいますが、
本当は相手の方はこう思っていて、あなたは誤解しているわけです」
とか
「あなたはこれが原因だと思っていらっしゃいますが、
じつは原因はここだったのです」
とか
「この問題は、こういう点で、とても深刻ですね。
まずあなたが一番気をつけるべきは、ここですよ」
などと、「正しい現実認識」を説明するのです。
その上で、
「ですから、今日からこう生きないとダメですよ」とか
「ですから、今日からこういう気持ちで向き合ってください」とかの
BE(あなたのあり方=心、精神、考え方)をアドバイスしたり、
「ですから、今日からこうしてください」
というDO(何をするか、具体的な言葉や行動)のアドバイスが出るわけです。
あなたが誰かにご相談したとき、されたときも、
そうではありませんでしたか?
アドバイスよりも、じつは、「正しい現実認識」が大事なのです。
悩んでいる人を楽にするための貢献度は、
「正しい現実認識」が8割、アドバイスが2割くらいだと思います。
なぜなら、「正しい現実認識」さえできれば、
だれもが、自分の中から、ちゃんと答えを見つけることができるからです。
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私が最近痛感するのは、
昔の自分がいかに非常識で、自分勝手で、傲慢で、矮小で、
デリカシーがなくて、いやなやつだったか、ということです。
最近は、恥ずかしくて穴があったら入りたい、とか、
自分が大嫌いです、のように熱くならず、
「あちゃー、痛いヤツだったなー」
という感じです。
当時、自分が怒りを感じていた人たちに対しても、
私がすごく幼稚でわがままで妄想だらけで、
いろいろと自業自得だっただけだし、
相手にはかえって悪かったなあと思います。
そして、そんな私と友達でいてくれた人、助けてくれた人たちに、
涙が出るほど、じわーっと感謝の念が湧いてくるのです。
「なにごとにも感謝しましょう」とか言われてするのは、
私にとっては苦行で、できないのですが、
「私の歪みまくった都合メガネ」が、
(完全ではありませんが)はずれてきて、
現実認識ができるにしたがって、
自然とありがたくて泣けてくるのです。
まあ、「正しい現実認識」としては、
当然、彼らにとって、私と一緒にいて楽しいとか、
いい部分もあったのだと思いますけど。(笑)
歪んだ自己愛を傷つけられると、心の中でキレて、心を閉ざす、
この繰り返しで、生きているのがつらかった。
これが「地獄」です。
「自分の都合メガネ」がはずれてきて、
自分のことが他者のように見えるようになると、
人って、思っていたよりもずっと、
あったかいんだなあ、寛容なんだなあ、ありがたいなあ、
と思えるようになった、
少々のことでは、心が波立たなくなった。
これが「天国」です。
過去に起こったことは同じなのに。
心が天国になったら、
「じゃあ、いったいどうしたらいいの・・・!(鼻息)」とか
「じゃあ、いったいどうしたらいいの・・・?(溜息)」とは
あまり思わないのです。
今は、自分が人に寛容に受け止めてもらった分、自分もそうできたらいいなあ、
とは少し思います。
(直情型で狭量な性質は根深いので、なかなかできませんが・・・。)
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昨日、
「最近、続けてこのシリーズを書いていてよかったな」
と思えることがありました。
寝ているときに郵便局から荷物が届いたのですが、
ピンポーンと鳴って、
「はーい!ちょっとお待ちくださーい!!」と大声で叫んで、
慌てて部屋着を着始めました。
しかし、その途中で、もう一度「ピンポーン」となりました。
はい、以前の私は、ここで、内心、軽くキレるのです。
「だから、お待ちくださいって言っただろうが!」
0.00001秒の間に、言葉にならないレベルで思うのです。
でも、このブログを書いている現在、
「自分の都合メガネ」をはずすのが上手になっているようで、
2度めの「ピンポーン」を聞いても、心が平静でした。
「あ、私の声が聞こえなかったんだな。悪い悪い」と思い、
玄関に向かいながら、
「ちょっとお待ちください!!」ともう一度言うと、
ドアの向こうから
「あ、わかりましたー」という声が聞こえました。
やはり、私の声が聞こえていなかっただけなのです。
それなのに、以前の私は、
「チッ、大声で返事をしたのに、もう一度鳴らしやがった」
とカンに障っていたのです。
このように、私たちは、
どんなに小さなことでも、
すべて「自分の都合メガネ」でものを見ていますし、
自分の都合だけで現実を捉え、感情的になっています。
つまり、「主観」ばかりになってしまうということですね。
「私が」「私は」「私の」「私」「私」・・・
と、「私にとって、どうであるか」でしか、ものが見られなくなり、
ひとりでカッカカッカしたり、
ひとりで落ち込んだり、怖がったりしているのです。
このシリーズを書くことで、
書いている私自身の
「主観をいったん置いておいて、現実を客観的に見る」
という回路がレベルアップしていると実感いたします。
「教えることが、一番学べる」という意味が、とてもよくわかります。
つづきます。