【完結編】「私はバカにされている!」+「『愛』ってなに」<21>

こんにちは。

今日もトキメキながら更新いたします。

今回は、前回の記事のつづきです。

私たちは、つい、

「今、目の前のこれを、思ったとおりに、うまくいかせたい。

そうすれば、自分は楽になれる、安心できる、幸せになれる」

と、現状をなんとかすることを焦ってしまいます。

気持ちは、よくわかりますよね。

私は以前から、ラジオの人生相談を聴くのが趣味で、

100件以上は聴いています。

最初にまず、年齢、家族構成からはじまり、

起こった問題やその背景について、

5W1H(What、Who、Where、When、Why、How)で

徹底的に事実を集めます。

さらに回答者からいろいろな角度での質問をし、

専門家としての正確な知識と、

人生経験豊富な大人としての、客観性や知性や理性や洞察を併せた

回答者それぞれの力量で、

「正確な現実認識」をしていくわけです。

(個人的には、「うーん、そうかなあ・・・?」と思うこともありますが。笑)

そのあとで、どんなご相談でも、

回答者のお返事は、

「では、明日からこうしてください。以上」

ではありません。

それだけを言われても、相談者は

「え?なんでそんなことをしないといけないの?」

となってしまいますよね。

「では、明日からこうしてください。以上」

ではなく、実際は、

「あなたは、相手はこう思っていると主張していらっしゃいますが、

本当は相手の方はこう思っていて、あなたは誤解しているわけです」

とか

「あなたはこれが原因だと思っていらっしゃいますが、

じつは原因はここだったのです」

とか

「この問題は、こういう点で、とても深刻ですね。

まずあなたが一番気をつけるべきは、ここですよ」

などと、「正しい現実認識」を説明するのです。

その上で、

「ですから、今日からこう生きないとダメですよ」とか

「ですから、今日からこういう気持ちで向き合ってください」とかの

BE(あなたのあり方=心、精神、考え方)をアドバイスしたり、

「ですから、今日からこうしてください」

というDO(何をするか、具体的な言葉や行動)のアドバイスが出るわけです。

あなたが誰かにご相談したとき、されたときも、

そうではありませんでしたか?

アドバイスよりも、じつは、「正しい現実認識」が大事なのです。

悩んでいる人を楽にするための貢献度は、

「正しい現実認識」が8割、アドバイスが2割くらいだと思います。

なぜなら、「正しい現実認識」さえできれば、

だれもが、自分の中から、ちゃんと答えを見つけることができるからです。

私が最近痛感するのは、

昔の自分がいかに非常識で、自分勝手で、傲慢で、矮小で、

デリカシーがなくて、いやなやつだったか、ということです。

最近は、恥ずかしくて穴があったら入りたい、とか、

自分が大嫌いです、のように熱くならず、

「あちゃー、痛いヤツだったなー」

という感じです。

当時、自分が怒りを感じていた人たちに対しても、

私がすごく幼稚でわがままで妄想だらけで、

いろいろと自業自得だっただけだし、

相手にはかえって悪かったなあと思います。

そして、そんな私と友達でいてくれた人、助けてくれた人たちに、

涙が出るほど、じわーっと感謝の念が湧いてくるのです。

「なにごとにも感謝しましょう」とか言われてするのは、

私にとっては苦行で、できないのですが、

「私の歪みまくった都合メガネ」が、

(完全ではありませんが)はずれてきて、

現実認識ができるにしたがって、

自然とありがたくて泣けてくるのです。

まあ、「正しい現実認識」としては、

当然、彼らにとって、私と一緒にいて楽しいとか、

いい部分もあったのだと思いますけど。(笑)

歪んだ自己愛を傷つけられると、心の中でキレて、心を閉ざす、

この繰り返しで、生きているのがつらかった

これが「地獄」です。

「自分の都合メガネ」がはずれてきて、

自分のことが他者のように見えるようになると、

人って、思っていたよりもずっと、

あったかいんだなあ、寛容なんだなあ、ありがたいなあ

と思えるようになった、

少々のことでは、心が波立たなくなった

これが「天国」です。

過去に起こったことは同じなのに。

心が天国になったら、

「じゃあ、いったいどうしたらいいの・・・!(鼻息)」とか

「じゃあ、いったいどうしたらいいの・・・?(溜息)」とは

あまり思わないのです。

今は、自分が人に寛容に受け止めてもらった分、自分もそうできたらいいなあ、

とは少し思います。

(直情型で狭量な性質は根深いので、なかなかできませんが・・・。)

昨日、

「最近、続けてこのシリーズを書いていてよかったな」

と思えることがありました。

寝ているときに郵便局から荷物が届いたのですが、

ピンポーンと鳴って、

「はーい!ちょっとお待ちくださーい!!」と大声で叫んで、

慌てて部屋着を着始めました。

しかし、その途中で、もう一度「ピンポーン」となりました。

はい、以前の私は、ここで、内心、軽くキレるのです。

「だから、お待ちくださいって言っただろうが!」

0.00001秒の間に、言葉にならないレベルで思うのです。

でも、このブログを書いている現在、

「自分の都合メガネ」をはずすのが上手になっているようで、

2度めの「ピンポーン」を聞いても、心が平静でした。

「あ、私の声が聞こえなかったんだな。悪い悪い」と思い、

玄関に向かいながら、

「ちょっとお待ちください!!」ともう一度言うと、

ドアの向こうから

「あ、わかりましたー」という声が聞こえました。

やはり、私の声が聞こえていなかっただけなのです。

それなのに、以前の私は、

「チッ、大声で返事をしたのに、もう一度鳴らしやがった」

とカンに障っていたのです。

このように、私たちは、

どんなに小さなことでも、

すべて「自分の都合メガネ」でものを見ていますし、

自分の都合だけで現実を捉え、感情的になっています。

つまり、「主観」ばかりになってしまうということですね。

「私が」「私は」「私の」「私」「私」・・・

と、「私にとって、どうであるか」でしか、ものが見られなくなり、

ひとりでカッカカッカしたり、

ひとりで落ち込んだり、怖がったりしているのです。

このシリーズを書くことで、

書いている私自身の

「主観をいったん置いておいて、現実を客観的に見る」

という回路がレベルアップしていると実感いたします。

「教えることが、一番学べる」という意味が、とてもよくわかります。

つづきます。