なぜ私たちは斎藤工に色気を感じてしまうのか/色気を哲学する

実際のところそんなにかわいいかは微妙だがちやほやされる女子の謎を解明する画像

「全裸でテレビ電話を掛けてしまうミスをした、見ず知らずの他人に」

 脱衣所でスマフォをいじっていたらしい友人から、ラインがきた。
想像しただけできびしい。
だって、深夜に見知らぬ番号からの電話に出たら、まったく知らない女の全裸が飛び込んでくるのだ。ラッキースケベとか、色気とか、エロスとか、そんな枠組みをはるかに超えている。 ちょっとしたこわい話として語り継がれる恐れすらある。
「大迷惑」と返したら「棚ぼたやろ」と開き直って、仕事で企画書が通った話を何食わぬ顔で続けてきた。

 友人からの電話に出てしまった知らない人は、その後どんな夜を過ごして、どんな朝を迎えたんだろう。

 これは、露出と色気は異なることがよく分かる例である。
肌が出ていれば、全裸であれば、色気が約束される訳ではない。

 だからこそ多くの人は必死に「色気 出し方」だとか「色気 メイク」とかを検索欄にカタカタ打ち込み、Twitterで「色気ほしいよ〜」なんてつぶやくのだろう。
 
 この世は情報に満ちあふれている。
渋谷への行き方から、爆弾の作り方まで、検索すればだいたいマニュアルがあり、それに則れば一定の成果を得られる。
でも、色気の作り方は確たるものが存在しない。

 逆に、色気のある人は、きっと自らの色気をセーブすることができない。ボサボサ頭で汚いシャツを着ていたって、斎藤工はどこまでもセクシーだからだ。
 
 人間はアポロ11号を月に飛ばすことができたくせに、色気をコントロールすることすらできないのだ。
 
 だがわたしたちには、理性がある。
物事を批判・分析して、概念を規定し、思索を深めることができる。
色気とは何か、色気の正体とは何なのか、思惟することができるはずだ。
色気を哲学することができるはずだ。