人類が何千年も追い続けた究極の「真理」

 そうなるならば、色気とは世界のまだ見えぬ奥行きによって生じるとも言える。
じゃあもはや色気を持つものは、人だけではなく、物や自然物、そして言葉だっていいはずだ。

 たとえば 『iphone やさしい使い方ブック』は、色気という点ではいただけない。
「アプリにおける利用規約」もだめ。
哲学者の中でも最もタイトルにセンスがないヘーゲル先生はもっと深刻で、『宗教哲学』『哲学史講義』『法哲学』はだいぶまずい。
 
 なぜって、全く駆り立てられないから。あと、読んだらわりと「なんだこんなもんか」って思っちゃいそうだから。読まなくても内容何となく分かるし。
 
 だが、デュラスM.のある小説のタイトルはどうだろう。
 
   『破壊しに、と彼女は言う』  
 
 うおーーーー。色気がすごい。「彼女」って誰? 何を破壊するんだろう、誰に言っているんだろう。タイトルだけで興奮してしまう。それに、読破しても意味わかんなそう。
 
 色気の敵は、「なんだこんなもんか」である。

 探究の熱意が切れずに、持続すること。それが色気の寿命を延ばすのだ。

 アリの巣ってどんな風になってんのかなあ、と気軽にgoogle検索するわたしたちは、アリの巣に好奇心をもっているけど、きっとすぐ解消される。答え出るし。
でも、アリの巣の真理を人生かけて解明しようと探究を続ける研究者たちは、アリに半端なく色気を感じているんじゃないだろうか。

 じゃあもしかしたら、最高に色気がある存在って、斎藤工でも、竹野内豊でも、工藤静香でも無くて、人類が何千年も追いかけてきた、きらきらどこかに光る究極の「真理(真、善、美)」なのかもしれない。

 全裸で見知らぬ人にテレビ電話を掛けてしまった友人。
電話を受け取った人は、あれは何だったのか、と気になり、きっと掛け直しの欲望に苛まれていることだろう。

 そうだとしたらもはや、色気の虜である。

 しかも、友人の裸によってではなく、裸で電話をしてきた、という事象そのものから発する色気の虜なのである。

 人間とは、色気をコントロールできないばかりか、訳の分からない抽象的な概念にすら色気を感じてしまい、それに苦しむ哀しき生き物なのだ。

 色気は、すぐそこで息を潜めてわたしたちを見つめている。

Text/永井玲衣

永井玲衣さん
都内で哲学研究と哲学実践。
ブログ:「はい哲学科研究室です」
Twitter:@nagainagainagai