「僕たち」じゃなく「私たち」

 あのイベントは本当に楽しかった。しかし、「僕たちはAVを卒業できない」というタイトルには引っかかる部分もある。それは「僕たち」の部分だ。私も一旦、わざと「僕たち」「ぼくら」といった一人称を採用して書いてきたけれども、「僕たち」とは誰のことを言っているのか?

 言うまでもなく、「僕」とは通常、男性の一人称である。だが出演者には女性の真咲監督もいた。じゃあそこにいる観客を指しているのかというと、しかしやはり、客席の3~4割は女性であり、男女関係なくみんなでイベントを楽しんだのである。出演者いわく、アンケートによれば(男女関係なく?)嵐山みちるファンが多かったらしいし、沢庵監督のイベントは今回が初めてではないという女性ファンも、壇上に上がっただけで4人いた。「僕たち」という一人称の選択は正しかったのか?

 もちろん、女性よりは男性のほうが多かったのは事実だ。しかし、だからといって多数決で「僕たち」を採用してしまえば、マイノリティとしてでも確実にその場に参加していた女性たちの存在は見えにくくなる。それでは彼女たちの愛を、欲望を、とらえることができない。「僕たち」という呼び方の裏にあるであろう「AVは男のものである」という前提は、もはや通用しない時代なのではないか。

「AVを卒業できない」人、「AVなしじゃ生きられない」人のなかには、絶対に女性も含まれている。そして私は、そういう「私たち」のために研究しているのだ。
「私たち」とは、たしかに社会の成員全員のことではない。しかし、決してニッチで取るに足らない存在ではなく、多くの大事な成員なのである。

Text/服部恵典