主観と客観の両立

 肉体のコミュニケーションは男優と行い、視線や声のコミュニケーションは視聴者と行う、このねじれた画面構成。
これを理解するヒントとなるのは、映画理論家ジャン・ミトリがいった「半主観的映像」という概念ではないかと思う。
マンガ研究家の泉信行はこれを「身体離脱ショット」と呼び変えたが、このほうがイメージしやすいかもしれない。

 つまり視聴者は、幽体離脱したかのように、魂のように漂う登場人物の「主観的視線」によって登場人物の身体を「客観視」するのだ。
そしてジャン・ミトリの研究の興味深いポイントは、視聴者が映像の登場人物に同一化するためには、主観的映像だけでなくこの「身体離脱ショット」こそ必要だと述べた点にある。
視聴者は、自分が同一化する対象である身体をあらゆる角度から客観的に眺め回し、身体を把握する。

 スポーツ選手が自分のフォームをビデオに撮って確かめるように、客観視することで、逆説的に身体感覚はより正確に同期するのである。
もう少し卑近で下品な例を挙げてよいなら、背中やアナルを舐められる快感は「主観」では見ることが不可能なのだ。

 ただし、男性向けAVの場合は映画とちがって、幽体離脱した「魂」と女優の目が合う。これが最も重要な点だ。
ふつう、幽体離脱したかのように客観的に身体を見つめる目線と、男優の立場から女優と見つめ合う主観的な目線とは両立しないはずなのである。

 しかし、鼻や口は横から描き目は正面から描くというようにさまざまな角度からの印象を1枚の絵に収めるキュビズム(立体主義)がごとく、男性向けAVにおいては、両立しないはずの客観・主観の2つの目線が1つの画面に同時に収まる。

服部恵典 東大 院生 ポルノグラフィ 研究 ピカソ キュビズム 泣く女 キュビズムの技法が使われた、パブロ・ピカソ『泣く女』

  このことによって、一石二鳥で「主観的映像」と「身体離脱ショット」のメリットを手に入れているのである。
非現実的な視線のやりとりが、あたかも現実に女優とセックスしているかのような感覚を強化するという逆説がここにある。

 これはおそらく、映画や漫画にはない、AVだけに存在する注目すべき技法である。
しかし、AVのこの技法に関して言及している文章を私は見たことがない。
AVは文化として低く見られることが多く、またその印象が大間違いだとまでは言わないけれども、独自の技法を洗練させたところに存在しているものなのだということが見落とされがちなのは残念だ。

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「非現実的な視線のやりとりが、あたかも現実に女優とセックスしているかのような感覚を強化するという逆説がここにある」と上に書いた。
この技術は、非現実性に大きく傾くと嘘くさくなる、とても危ういバランスのうえに成り立っているのだ。

 したがって、この被写体の視線というテーマは、《女性向けAVと「欲望の三角形」》の回に「またいつか掘り下げられたらと思う」と書いた、嘘くささのジェンダー差の話と実は結びついているのだが……詳しくは次回に。
 
Text/服部恵典

次回は<『シン・ゴジラ』とAVのリアリティ――男優のカメラ目線に萎える女性たち>です。
男性向けAVの技術、女性向けAVの被写体の視線、「リアリティの楽しみ方」……これらと「シン・ゴジラ」は一見すると関係性が全く無いように見えますが、実は大きな関係があるようです。今回は視聴者の目線、製作者の目線から紐解き、AVの楽しみ方をAM読者の皆さんにご紹介します!