過去に学ばない

「歴史に学べ」とか「PDCAをまわせ」とか、そういう正論っぽい説を恋愛にもあてはめようとする人がたまにいるけれど、あまりに野暮だ。偉人の伝記などを読むと、たいていみんな恋に狂い、愚行を繰り返し、諍い、妬み、悲しんでいるではないか。PDCAなんかまわし出したら2周目くらいで「恋なんて効率の悪いことしないほうがいい」と結論が出てしまいそうだ。

過去に学ばない。何度骨折を繰り返そうが、「次は大丈夫」だと盲目に信じる。大人が恋に突き進むには、バカになるしかないのだと思う。とはいえなかなか完全なバカにはなりきれないので、私は「もう、恋愛とはそういうものだから」と諦めることにしている。あえて過去の経験から学ばず、わき目を振らず骨を折ろうが何だろうが崖から飛び降りるのだ。

ちなみにバンジージャンプのコツは「下を見ないこと」「すぐに飛ぶこと」だそうだ。当たり前だが、下を見たり躊躇したりしていては怖くて飛べなくなる、ということが分かっているからこそ、そのようなコツが存在する。恋愛も同じで、「結果を予想すればできたもんじゃない!」とわかっている大人だからこそ、できることがあるのではないか。坂口安吾は恋愛を知った大人を「不幸」と言ったが、大人は大人らしく、それでもあえて恋に狂えばいいのだと思う。

感覚を信じる

「好きっていうのが何なのかわからない」と相談されることがある。正直、私にも全くわからない。これまでたくさん恋をしてきたつもりだが、本当に好きだったのか、純粋な恋愛だったのか、とあえて問われたら、違うのかもしれない。ただの承認欲求だったり性欲だったり暴力だったり依存だったり、そういうものを恋と取り違えて、きらきらした言葉に粉飾してきてしまったのかもしれない。

でも、私は別に、恋がわからなくても、あいまいでも、いいのかなと思う。きっと「相手のことを想うだけの純粋な恋愛」なんてものは存在しなくて、「セックスしたい」「恋人がほしい」「癒されたい」「すごいと思われたい」「幸せなカップルをやってみたい」そんなあいまいな欲望がまじりあって高まったものを、みんな、恋と呼んでいるのだと思う。だから細かいことは気にせず、ドキドキしたら、キスをしたいと思ったら、思い出して自慰をしたら、それはもう恋なのだと思い込んでいる。

大人になるとどうしても、言葉が先だって、「これが恋というものだ」とか「本当に好きな人にはこうすべきだ」とか考えてしまいがちだが、私はそういうことはなるべく無視するようにしている。これはきっと恋だ。あなたのことが好きだ。それだけでいい。自分の感覚を信じて、かたい頭をほぐし、いつでも狂えるようにしておくこと。いつまでも恋に狂い続ける才能というものがあるとしたら、つまりは賢くならないようにあえて努めるということなのだ。

Text/雨あがりの少女