わたしはまだまだ若い。だって今でもわたしはのめりこみやすい。

つい最近、小説の学校に通い始めた。ひとりで物を書くことへの限界を感じたのだ。競い合う仲間、切磋琢磨できる友人が欲しい。そう思い、まずは体験入学に行くことにした。電車に乗って、久しぶりの学校。おそるおそる入室した教室には、一人、制服を着た女の子がいた。講師からその子が書いたという小説を手渡され、何の気なしに目を落として、わたしは驚いた。
なんだ、この静謐な小説は! 若さと対極にありながら、若さそのもののような小説は!
湧き上がるこの印象が一体どこから生まれているのか、わたしは何度も何度も文字を目で追った。そして気がついた。書かれた言葉ひとつひとつに、それが選ばれた必然があるのだ。この言葉でなくてはいけない。そう筆者が感じ、選び取った言葉がつらなると、そこには完成された世界観が生まれる。そして必然は強い執着から成る。頑迷な思い込みが、言葉と言葉をつなぎ、エネルギーを生む。

その時、アッと声が出た。この言葉を、いつか、わたしも言われた。静謐さ、閉ざされた世界、そして若さ———。ようやくわかった。若さとは、「研ぎ澄まされた集中力がある」ということなのだ。

27歳も半ばを過ぎて知ったのは、人間は体の老化より先に、精神に変化が訪れるということだ。失恋してもさして引きずらないようになったり、今まで打ち込んでいたことを「やりきった」と辞めて、心機一転新しい仕事を始めたりする。執着や頑迷さが失われ、広い視野を持てるようになる。
つまり、のめりこむことが少なくなる。寝食を忘れるような没入感が持てなくなる。夢、目標、大好きだった人、愛していたもの。他には何にもいらないと、あんなにも夢中になっていたのに。
こうでなければいけない、という思い込みが無くなり、情熱が失われる。そこには解放感と、一抹の淋しさがある。だからこそ人は、向こう見ずなまでにまっすぐだったあの頃を思い出してこう言うのだ。
「若かった、すばらしかった」と。
ようやくわかった。あの時、わたしに「若さがある」と言ってくれた観客の真意が。わたしは言葉の一面に振り回されすぎていた。言葉には多義がある。そんな当たり前のことを忘れていた。

制服を着た女の子を見つめた。少女らしい頬のふくらみが輝いていた。彼女の小説には、明るさはない。溌剌さも、元気の良さもない。ただ、圧倒的な集中力がある。そしてそれをわたしは「若い」と感じている。

毎日をどれほど頑張っても、人間は老いてゆく。いずれ失われていく「若さ」があなたのすばらしさだと言われているような気がしていた時、何をしても、過去よりも未来が輝くことは無くて、生きることが恐ろしかった。だけど、わたしの肉体から少しずつ去りゆくものが「集中力」だとしたら、それは年齢を重ねることや肉体の衰えとは関係ない。
教えてくれてありがとう、と心の中でつぶやいた。
そして講師に言った、「わたし、入学します!」

人のいない電車に揺られ、家路をたどる。27歳を半分も過ぎた夏の始め。怯えは消え、自信だけが残った。わたしはまだまだ若い。だって今でもわたしはのめりこみやすい。失恋を引きずっているし、夢だって諦めきれていない。すぐに思い詰めて、死ぬだのなんだの騒ぎ立てる。頑迷で、向こう見ず。そして何より自分の集中力が、言葉を選ぶとき、他の何に対峙するときも際立って研ぎ澄まされる。その実感が、在る。これは誰かの評価に裏打ちされたものじゃない。わたし自身がそう感じてる。そう信じてる。だからわたしはまだまだ若い。そしてこれからも若い。きっと永遠に、若いのだ。

Text/葭本未織