友だちを分散させるともっと自由になる

友達のハードルがめちゃくちゃ高い人って結構いると思うのですが、あなたはどうでしょうか?
結婚していようが、結婚していなかろうが、シングルマザーだろうが、働いていようが、働いていなかろうが、ごく自然に日常生活を送っていたら人との関わりがゼロ、という状況は滅多にないと思います。
ところが、あなたは「友達と呼べる相手がいない」と言い切ってしまっているので、もしかして友達の定義をややこしくして自らハードルを上げてしまっているのでは? という印象を抱きました。

「友達は多ければ多い方がすごい」「友達は数の多さよりも関係の深さが重要」など様々な考え方がありますが、わたしはそんなのどうだってよくて、数も深さもなんの指標にもならないと思っています。
さらに“友達のハードルが高い”人の中には、「友達=ありとあらゆる趣味が一緒で、価値観が合って、心から信頼し合えて、なんでも話せて、秘密なんてなにひとつなくて、心から理解し合えて、全て許し合える」なんて極端な定義を掲げている人もいて、そういう考え方に触れると「いやいや! そんなん無理っしょ! なーに自分で生きづらくしちゃってんのさ!」と心配になってしまうんですよね。

人間って、誰しもいろんな感情を持っていて、そんな完璧な生き物じゃないのです。
自分にとって都合のいい関係、と言えば言葉は悪いし誤解され兼ねませんが、ある程度人間関係を分散することはとても大事だと思います。

あなたの中の友達の定義を、少しだけ緩和してみませんか?
学生の頃の友達って、グループがあったり、見えないヒエラルキーが存在したり、秘密を共有しなくちゃいけなかったり、お決まりのノリや暗黙のルールがあったりと、ガチガチな関係を避けられなかったように思います。
そういう友達のイメージを持ったまま大人になると、少し億劫だと感じてしまうかもしれませんね。
でも、大人になってからの友達って、思いやりを持ってマナーを守って接していれば、そんなガチガチな関係ではなく、もっと自由なんです。

家庭や恋愛の悩みを相談できて時に厳しい意見を言ってくれるのも友達、込み入った話はほとんどしないけれど趣味が同じで一緒にイベントに行って楽しんだり推しについて熱く語り合うのも友達、遠くに住んでいるから会ったことはないけれど家でオンラインゲームを一緒にするのも友達、職場の同僚で休みの日は個人的に遊んだりしないけれど仕事帰りに一緒にごはんを食べに行って仕事の愚痴を言い合うのも友達、住んでいるところは知らないけれど行きつけの飲み屋でしょっちゅう顔を合わせてしゃべるのも友達、SNSで知り合って職業や住んでいるところはおろか顔も本名も知らないけれどインターネットで長くやりとりしているのも友達。
年齢も、性別も、職業も、自分が置かれている環境も、関係ない。
全てを曝け出してなんでも話せる存在というのは理想かもしれませんが、この人だから話せる内容、あの人とだから楽しく話せる話題、というのがあるのは不思議なことではないですし、そう考えると、友達の存在ってとっても気楽で面白いと感じませんか?