善人である信頼

最後に紹介する信頼は「自分が人を深く傷つけるわけない」という信頼だ。不倫は、関係を持った2人だけの出来事ではない。お互いのパートナーや子供、親、死んだおじいちゃんにも関係することである。絶対に隠し通す自信があったり、自分たちの不倫は、仕方ないと許してもらえる特別な不倫だって自信がある人は、あんまり想像しないのかもしれないけど、バレたらたぶん、誰かが深く傷つく。もしかしたら、二度と立ち直れないくらい傷つくかもしれないのだ。そのことに、どのくらい自覚的なんだろう。

誰しも、自分が被害者になった姿は想像する。じゃあ、加害者になった姿は? これは不倫に限ったことじゃなくて、私たちはあんまり自分の加害者性を見つめられない。人に殺されないように気をつけて夜道を歩くことはあっても、人を殺さないように気をつけて改札を通ったりはしないでしょ? でも、殺さないように気をつけるのって、大切なことじゃないかなってわたしは思うのだ。

「バレなければ大丈夫」はその通りだ。でも、問題はそこじゃなくって「バレたら好きな人が大切に思う誰かがめちゃくちゃ傷つく」っていう仮定の中にあるんじゃない? その仮定をきちんと想像していないとしたら、こりゃまた凄い信頼だなって思うわけです。シザーハンズが超無邪気にハグしてくる時の怖さに似てる。

ここまで書いたものを読み返すと「凄い不倫反対人間だな」って感じがしてしまうけど、別にそんなことはないのです。結局、人の自由だから。わたしが今、不倫する気が起きていないのは全てにおいて自分を信頼していないからってだけで、世間的に悪いことだからとかっていう理由ではない。

でももしかしたら、不倫してる人からすれば「そんな自分への信頼ないよ…」って途方に暮れてしまうかもしれなくて、当事者じゃないことを考えるのってなんて難しいんだろう。忘れてしまいがちだけど、人の気持ちなんてわからない。わからない他人よりもわかる自分のことの方が繊細に扱えるのは当たり前で、だから「不倫したら人が傷つく」って分かっていても自分の愛情を優先させちゃうのはどうしようもないことかもしれない。だけど、自分への信頼が気付かないうちに分厚くなっていくことってとっても怖いから、わたしはどんな時もわたしの最高裁判所長官でいなくてはなと、今ここでわたしを最高裁判所長官に任命しようと思います。

Text/長井短