結局「ブス」は、「いけすかない」とイコールだ。何か気に触ることがあった時、それに容姿のちょっとした欠点が掛け算されて「ブス」度が高くなる。容姿がどうであれ、「いけすかないポイント」が0なら、ブス判定はされないのである。
容姿に欠点の多いわたしは、全方位からの「いけすかないポイント」を0にしておく必要があった。そうすれば、ブスと言われず静かな日常を生きていられる。それだけ気にしておいて手に入れるものが平和な日常だけなんて、なんともむなしいことではある。

中学校時代を頂点として、容姿への捕らわれ方はだんだんと薄くなっていった。容姿のせいで上手くいかないことは思ったよりはずっと少なく、実力とか、普段の言動のほうがよっぽど大事だと気づかざるを得なかった。ブスを言い訳にできなくなってしまった。
ブスだからできないのではなく、シンプルに実力や努力が足りないことを自覚するのは、それはそれでしんどい作業だった。

それでも今も、「これはわたしが美女だったら解決するのでは」と思うことがある。恋愛なんかならまだしも、仕事でミスをしたときや、どうしようもない不幸に見舞われた時に。

「美女ならこういう状況にならなかったのではないか」「美女ならどこからともなく助けが来るのではないか」。
そういう考えが、理性を通り越して頭をよぎる。よくよく考えれば、美女でもつまずくことはあるし、美女だからと差し伸べられる手が何を期待しているのか考えると、あまり得でもないのだろう。昔よりましになったとはいえ、今でも容姿に捕らわれている。というか、他の人に比べて美しさに夢を見ているような気がする。美しさを、すべてを解決する魔法のように思っている節がある。

最近、彼氏とディズニーランドに行った。彼が撮ってくれたわたしの写真はわりとヤバめで、他撮りの恐ろしさをまざまざと映し出していた。ウッと思うと同時に、「まぁ、楽しそうだからいいか」と思えたわたしは、呪いがとけ始めているのかもしれない。
わたしはこれからも、容姿とか美しさの縛りから完全には抜けられないんだろう。そういうものより大切な何かを、これから身につけていきたいと思う。

Text/白井瑶
初出:2018.09.20