愛される義務、使命感

女にとっても友情は決して軽いものではない。だけど時にはそれを超えるくらい、愛されなくてはならないと、強い義務感に駆られてしまう時がある。愛されることは確かにすばらしい。でも、愛されなくても全然いいのだ。女の価値はそれだけではない。

個人的には、知らない女ならともかく、友人と争ってまで男を手に入れるのは労力に見合わないと思う。陳腐だが、男は星の数ほどいるのだ。でも、長く付き合える女友達は星の数ほどはいない。

この記事を書くにあたって、「とはいえ、もしも友人の彼氏が坂口健太郎で、彼に言い寄られたらどうだろう」と考えてみたが、答えは【泣きながら撤退】となった。いや、実際坂口健太郎だと正直かなりあやういと思うが、そういうことにしておきたい。なぜならその坂口健太郎はただの坂口健太郎ではなく、彼女の友人を口説くような坂口健太郎なのである(ちなみにこの文章はブスが書いている)。

クラスメイトはもう新しくはできないし、大学のゼミのような同期もこれから増えることはない。友人たちが坂口健太郎の彼女にならない限り、心穏やかに友情は続いていきそうである。

Text/白井瑶

次回は<セクハラを流して大人の対応ができる女はイイ女だという呪い>です。
「セクハラ・痴漢をされるのは女として魅力があるから」と言われることがあります。未だに「性被害を受けるのは見た目の良い子」という認識が根付いているのかもしれません。しかし、実際被害にあうのは「不都合な声をあげそうにない女」です。女性が性犯罪に遭わない、当たり前の環境で生きていくためには。