「いまだ!」と思っても掴めない

 岩手県にあった「ひいおじいちゃん家」の前にも、川はありました。曽祖父は川沿いの一軒家にひとりで暮らしていたのです。
夏休みに遊びに行くと、親戚も集まる日がありました。曽祖父には三人の娘(と、息子。私の祖父)がいるので、全員集まると大変にかしましいのでした。私は毎年、しばらくは賑やかな雰囲気を楽しむものの、不意に大人たちが何を話しているのかわからないことに気がついて、退屈になってしまいます。そうするといつも暇つぶしに外に出ました。家の前は駐車場になっていたので、その砂利を川に向かって投げるのです。

 川はちょうど、向こう岸まで石が届きそうな幅なので、向かいにある歩道を目標にして投げます。石は対岸の壁まで飛んで跳ね返ることもありましたし、そこまで飛ばなくてそのまま川に入っていくこともありました。よくよく思い出してみると、一度も歩道に届いたことなんてなかったかもしれません。
曽祖父の家の周りには、どこからどこへ流れているのかわからない川の一部と、歩道と、田んぼと、よく吠える隣の家の犬しかいなくて、石を投げているうちに、だんだん無心になってきます。

 私の意識は東京の家から離れて、学校の友達から離れて、夏休みの間だけ寝泊まりしてる祖父母の家からも離れて、おばちゃんたちがお喋りしてる居間からも遠く離れて、ただ足元の石を拾っては左から右へ流れていく川に投げているだけになりました。

 石は何度でも、「いまだ!」と思って投げます。向こうの歩道まで石が届きそうな気がして、意気込むのです。
でも石が手を離れた瞬間に、いまだと思った「いま」も離れていって、私の意気込みが揺らいだみたいに、石も勢いを失って川に落ちていきます。そして川に落ちた時には、確信していた「いま」も遠く、石が落ちたところよりももうずっと右に進んだところまで流れているのです。
川は私が意気込んでも、悩んで立ち止まっても、有無を言わせずに流れていて、掴むことはできません。

 いまじゃなかったかあと思いながら石を拾って、また「いまだ!」と思って投げます。でも石が手を離れた瞬間に、いまだと思っていた「いま」も離れていって……。

 時々、あの朝に立てたフラッグを思い出します。案の定、随分遠くまで来たように感じます。

Text/姫乃たま

次回は<一緒にいることも、離れることも選べる。大人になった友人との関係/姫乃たま>です。
原稿を書く手を止めて、ふらっと入ったスパで思い出す。「何年か前の夏によくデリヘルの待機所に寝泊まりしてて、店長とよくここに来てたんだ」。地下アイドルでライターの姫乃たまさんが、友人に話したことと話さなかったこと。