40代の欲望を許さない「よき母」

 あれは、わたしがまだ十代の頃でした。女友達と道玄坂のクラブで夜通し遊んで外に出ると、同じように一晩中遊び狂ったにもかかわらず、まだお祭り騒ぎの余韻を引きずったままの同年代の男女が大勢、朝日に照らされて何をするでもなくたむろっていました。ラーメンでも食べて帰ろうか。そんなことを話しながら歩いていると、女友達が道の向こう側にいる、やたらと美脚なホットパンツ姿の女性を指さしてこう言ったのです。
「あの人、たしか30歳だよ。すごくない?」
その頃のわたしがイメージしていた30歳というものは、すでに結婚していて、子供がいて、という像でした。もしくは、黒いパンツスーツでビシッとキメたキャリアウーマン。ベタすぎますが、若かったから仕方がない。実際に30歳の女性と知り合う機会など当時はなかったのです。

 だから、わたしたちと同じように浮つきまくった格好をして、クラブでオールしている30歳を見て驚いたのは確かです。けれども、ずいぶんとキレイな人だったこともあって、それ以上は特になにも思いませんでした。隣にいた友人が「30歳であれとか、ヤッバいよね」といかにもバカにしたように鼻を鳴らす姿を見て、「そうか、30歳であればヤバいと言われるのか」と知ると同時に、青春と呼ばれるものの短さを感じたのでした。

 それからも度々、女友達が年上の女を見て、同じような反応をする姿を目にしてきました。「オバサンなのにものすごく頑張ってて、おかしい」「オバサンなのに、わたしたちが着ているような服を着ていて痛い」「オバサンなのにセックスするなんて気持ち悪い」。
彼女たちはなぜ嫌悪感を剥き出しにするのか、ずっと疑問に思っていたのですが、ある時、二十代の女友達が四十代の女性を指して言った言葉でようやく納得が出来ました。
「あの人、うちのお母さんとほとんど年が変わらないのに、あんな感じなの、すごい嫌なんだけど」

 ようするにマザコンなのです。つつましい服装や節度ある行動を求めるのは、母の姿として、それが正しいものだから。元カレだのなんだのと生臭い欲望を放つのは、母の佇まいとしては正しくないこと。本来ならば、同性がいくつになっても好きなことをしている姿は希望にだってなるはずです。いつかは自分も年を取るのだから。けれども、嫌悪の対象にしかならないのは、「わたしの母は、よき母でないと困る」という子供目線の気持ちと、「欲望を捨てきれずに、よき母になれないのは困る」という自分への恐れなのではないでしょうか。けれども正しさを求めるのは、せめて自分と自分の母だけにして、よその女性が何をしようが放っておいてあげませんか。

 ずいぶんと元カレ問題から離れてしまいましたが、残念なことに、年を取れば欲望から解放されるなんてことはありません。だから、欲望をあらわにして「痛い」と言われるか、煩悩などないふうを装って周囲からはよく出来た人だと思われながらも、心の中では人を羨むか。そのどちらかなのです。

Text/大泉りか

次回は<赤ちゃんのオチンチンはみんな可愛いのに…大人のアソコとあの日の記憶>です。
3ヶ月前にお子さんを産んで育児に大忙しな大泉りかさん。育児中の癒しは、マイ・ベスト・フェイバリット・オチンチンこと息子さんの可愛いオチンチン!それにしても、赤ちゃんのオチンチンはどれも可愛いのに、大人のオチンチンが可愛くないのはなぜ?そこには、おそらく大泉さんの例に限らない、ペニスの記憶が関係していました。