インパクトの前で言葉は無力

喧嘩にきちんとケリをつけることは、めちゃくちゃ難しい。ちゃんと向き合おうと思っても、どうしても、どこかで逃げにいってしまう。勝ちにいってしまうと言ってもいい。「家から飛び出す」という行為はまさに逃げの十八番で、それは物理的な意味だけではない。部屋の中でどれだけ会話を積み重ねても、そこでどれだけ建設的な言葉を交わそうと「出ていった」という現象の強さには勝てないのだ。物を壊すとか、とにかく泣きじゃくるも同じ。インパクトが喧嘩に割って入った瞬間に、論点は変わる。「どうして浮気したんだ」とか「別れたくない」とか、何を話していたにせよ、飛び出していった者の安否の方が優先順位は上で、そういうインパクトの前で言葉は無力だ。

あの時家を飛び出した私は、そのことを自覚しないまま、ただ衝動的に家を出ていた。六太郎はどうだったんだろう。負け確した私が悔しくて飛び出したと思っていただろうか。それとも、六太郎もこのシステムの巧妙さには気づいてなかった?彼は、若い私をきちんと年下扱いしてくれる人だった。家から飛び出す私のことを許すし、喧嘩の最中にふざけだせばいつも一緒にふざけてくれた。私はそういう六太郎のことが本当に好きだった。相性ぴったしだとも思っていた。実際、ぴったしだったんだろう。私と六太郎はお互いに、同じ弱さを持っていたんだと今ならわかる。面白い方がいいし、くだらないのが楽しい。甘やかされたいし甘やかしたい。需要と供給はぴたりと合ってて、だからこんなに気が合う。それなら別に、喧嘩が空中分解しても問題ないだろと思ってたけど、目を背け続けた弱さは絶対に、未来で首を絞めにくる。飛び出した時点で私は、前に進むことを放棄したのだ。その私に乗っかる六太郎も、弱さから逃げたってことになる。お互い本当に本気なら、飛び出しちゃ駄目だったし、追いかけても駄目だった。面白くしちゃ駄目だった。苦しくても話し合い続けることと、爆弾を落として現実から離脱すること。後者は楽で、すぐに仲直りもできる。何もなかったみたいに一つになって眠れる。でもそれは、根本的な治療にはならない。ロキソニンをどれだけ飲んでも、また次の月には重たい生理痛がやってくるのと同じように。

逃げたい瞬間はいっぱいある。飛び出したいなんて思っていなくても、体が心を守ろうと、勝手にその場から離脱しようとしてしまうこともあるだろう。でも、今私は、荒縄で自分を縛り付けてでもその場に留まり続けたい。どれだけ苦しい道だとしても、行き止まりに置いてある、問題の本質に辿り着きたい。インパクトで煙に巻いて、吹き出しちゃって仲直り。そんなのは、せーので未来を諦めることだ。その瞬間がどれだけ邦画みたいにロマンチックでも、そこで起きていることは後退。諦めたくない愛情があるのなら、埃の輝く朝日に飲まれてはいけない。涙をギュッと堰き止めて、体に鞭打ちながら他者と向き合う腹を括る。そうして、逃げない2023年を送りましょう。

TEXT/長井短